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【七峰】(ウルトラ)怪獣私論


前置き 〜『コスモス世代』としての怪獣論

 2000年代以後のウルトラシリーズには『ポケットモンスター(ポケモン)』の影響が散見される、ということは歴史的見地からもほぼ正しいらしい。

この記事の年表がわかりやすい

 ポケモンの美徳は「どんなポケモンとも『おともだち』になれる」という点にあると僕は考えている。
 ポケモンのメインストリームは闘鶏めいた戦いや一方的な捕獲であるため、ともすれば忘れられがちなのだがポケモンとポケモントレーナーの間には友情があることが前提にあり(ゆえに私利私欲のためにポケモンを利用する者は「悪」とされる)、それは創造神のような伝説上のポケモンも、時として人間に害をなす恐ろしいポケモンも例外ではない。

 どんな人物も、またどんなポケモンも、かけがえのない「おともだち」と出会うことができる。それこそがポケモンの美徳であり本質だ。

 とはいえ、ポケモンシリーズの子供向けコンテンツとしての分かりやすさや商業的成功の後追いから、ウルトラ怪獣もまた環境保護や使役の対象として描かれてきた側面は大いにある。

 僕の場合「初ウルトラマンである『コスモス』のSRC怪獣保護センターや『大怪獣バトル』のゲームは違和感無く見ていたが、『ルーブ』の怪獣クリスタルによる怪獣の使役はあまり好ましくなかった」という立場において以下に語る。

怪獣とは、なにか

 僕にとって怪獣とはなんなのかを考えるとき、ルーツとしては『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃(2001)』を挙げずにはおれない。

 先の大戦の反省を怠った現代の若者を情け容赦なく蹂躙じゅうりんする怨霊ゴジラと、国土は守るが日本国民の犠牲を顧みない護国聖獣の神性をおそれた。

 他方、ポケモンのゲームにどっぷり浸かって家の外で遊ばない子供でもあった。
 気心の知れた……もとい僕から一方的に友好関係を結んだ「おともだち」はゲーム機の中にいて、現実の友人知人というものは必ずなんらかの心理戦を必要とする「仁義なき」関係性だった。

 ギブ&テイクのない人間関係などあり得ず、ただただ自分に都合のいいイエスマンが理解者として欲しかっただけなのだということを僕は10代の終わりに思い知るのだが、その間にも怪獣とは単なる加害者ではないということはなんとなく心に感じてきた。

 昭和ウルトラシリーズの名エピソードとしてネット上に伝え語られる作品群や、アニメ『コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜』第4〜5話 「日本『怪獣』史 前・後篇」に代表される怪獣なるものへの謎かけ、折に触れて繰り返し見てしまう初代『ゴジラ』……。

 僕の心の中にすら、怪獣はいると思ったこともある。尽きぬ食欲のメタファーとして。

 また、日の明るいうちの外出時にはまぶしくてサングラスをかけている自分を半分くらい地底人だと思っているのでテレスドンには共感を寄せている。

(ウルトラマン第22話 / 「地上破壊工作」リンク添付)

怪獣は反抗パンクの象徴か

 ネットの記事や映像作品から間接的な怪獣論を浴びて、僕は僕なりに怪獣の自由を尊重したい気持ちを育ててきた。ゆえに自由意志もなくただ生物兵器として使役・利用され暴れ回るだけの怪獣は苦手だ。

 しかしながら「怪獣は退治されるもの」という先入観も働いている。
 結局はウルトラマンが(その闘いぶりが)好きだということを否定はできない。

 近年ではむしろ怪獣を生かすことで地球環境が良化されるという幕切れを見せた『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』ほか、怪獣KAIJUも地球環境の一部として保護・保全するべきだという動きが起きているという噂を耳にする。

 それはそれで大いに結構なこととは言いたいが、怪獣第一ファーストを標榜する人類というものになにか違和感があり……自分たちのわかりやすい決まりごとの型にはめないと気が済まないのかな、とも感じる(ポケモンのモンスターボールもまた「決まりごとの型」ではあるけれども)。

 そうではなくもっと根本的に、怪獣とは基本的に自由なであり、そうであるが故にこの文明社会の暴力やしがらみをその巨体によって叩き潰すような存在である、そうあって欲しいと僕は願っている。

 だがそれではこの地球に築き上げられた人間の領域を維持できなくなってしまうので、ウルトラマンが怪獣と相撲をとり、荒魂を鎮め不均衡アンバランス均衡バランスに変換する……その「お約束」に立ち戻っていく。

(「日本人とウルトラマン第10回 ウルトラマンはなぜ闘うのか」リンク添付)

 僕はツブイマで『ウルトラファイト』に熱中した。それも、突き詰めて考えれば「基本的に自由な怪獣」の姿がそこにあると思ったからだ。

 まあ、その自由度の8割くらいは山田二郎氏の名調子にあるわけだが……寝食に等しく争い続けるウルトラ怪獣とウルトラセブンを見ていると、その地平には善と悪の境界もなくなり、ただただ無秩序な混沌が広がっているように思われる。

 さすがに『ウルトラファイト』の世界観をものさしにして他シリーズ作品と比べるなどという暴挙には出られないが……あえて言えば『大怪獣バトル』以後(すなわち『ポケモン』以後)の「使役者の息がかかった怪獣同士の決闘」ではないその闘いぶりに、後追いならではの新鮮さがあったのだ。

最後に ~要点をまとめる

『ポケモン』以後の世界では、ウルトラ怪獣もまた「おともだち」になりうる存在として描かれるようになっていった。
 そのことはポケモンシリーズが年を重ねるごとに背負わざるを得なくなったのと同じように、環境保全や動物愛護の現実問題とバッティングする。

悲しみ一つも無い未来
手と手取り合えばきっと掴めるさ

 絆の力を強調する昨今では逆説的に私利私欲のための要請は「悪」と定義され、時勢に即した勧善懲悪の物語が生まれた。

 だが同時に、人類の(文明社会の)管理下によって保護・保全されるべき対象、あるいは何らかの関係のもと決闘を代行する生物兵器としての「怪獣」という定義が多数派に広まってもきた。

 そうではなく、ここでより原理的に言えば怪獣とは「基本的に自由」な存在であり、そうであるがゆえに既存の暴力やしがらみの破壊者として均衡を乱す者であると考えた。

 なお以上は僕個人の見解であり、本記事で怪獣の何たるかを言い当てたとは思わない。

(終)

参考文献

(参照2024-11-18)

(参照2024-11-18)

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