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年度またぎの読書遍歴 ~言葉を尽くしてものがたること
先にまとめから
・ツイッターから新刊の情報を得て購入した本
勝浦雅彦(2022)『つながるための言葉:「伝わらない」は当たり前』光文社.
内藤理恵子(2022)『新しい教養としてのポップカルチャー:マンガ、アニメ、ゲーム講義』日本実業出版社.
・小説の登場人物(キャラクター)を考えるために再読した、過去に購入した本
藤田和日郎・飯田一史(2016)『読者ハ読ムナ(笑):いかにして藤田和日郎の新人アシスタントが漫画家になったか』小学館.
小池一夫(2018)『小池一夫のキャラクター進化論 (2): 変化と進化のスーパーキャラクター《へンしン・パ!》』星海社.
・同じく創作論を求めて図書館で借りた本
山本弘(2021)『創作講座:料理を作るように小説を書こう』東京創元社.
つながるための言葉
ツイッターを眺めていて、ちょうどこのツイートのような運の巡り合わせがあった(春間近のそれなりに良い天気で昼間の予定が空いていた)ので、町の書店に出かけた。
ちょっとあったかくなって、すこしはるめいて、せかいはさわがしいけどまだまんぼうで、いろいろあるけどたべるところとねるところはとりあえずあって、すまほをさわるげんきももってて、このどにちはどこにいこうかとかんがえるじゆうもそこそこ、そんなあなたはきいろいほんよんでれびゅーかいてね
— 勝浦雅彦 初著書「つながるための言葉」1月19日出版 (@katsufootball) February 25, 2022
本書はプロのコピーライターが自分の半生を紐解きながら、一朝一夕には身に付かない言葉の持つ力について語りつくすものだ。特に第一章のSTEP2では心理学モデルの「ジョハリの窓」を用いて、自分と身近な他者との客観的な自己分析を通じて多面的な「4つの自分」と対話し、同時に他者と対話するこの相関が、栄養ドリンクめいたビジネス書とは一線を画す自分磨きの第一歩であるとわかる。
僕は本を読んでいきなり誰彼構わず「ジョハリの窓をやろう!」と誘うことはできなかったのでつい読み飛ばしてしまったのだけれど、その「やらない言い訳」についても著者ははっきりと指摘しているので、自然と居ずまいを正す。そして自分が過去に表現した言葉たちについて振り返りたくなる。
たとえばはっきり「ごめんなさい」と謝罪するのと、それと似たような意味だけど仰々しい短歌をしたためるために普段使わない辞書や歳時記とにらめっこするのとでは、真心から伝えたいことやその意味のベクトルが少し曲がったりするのではないか。
やろうと思えばいかようにも変形する可塑性を持つ言葉というものについて、その使い手は言葉をどのようにデザインしていくのか、改めて考えなおす機会になった。
ちなみにウィズコロナ時代のキャッチフレーズとして一番僕に「刺さった」のは、NON STYLE石田氏の「最も手が清潔な新成人」だ。
歴代の新成人の中で君たち新成人は最も手が清潔な新成人だ。最優秀手指清潔新成人賞おめでとう!
— NON STYLE石田 (@gakuishida) January 11, 2021
この年の新成人ではない僕でさえも手を洗い、消毒するたびに「歴代最も……」と思い出す。時代に見合う研ぎ澄まされた言葉だったと思う。
新しい教養としてのポップカルチャー
「いつか君たちの見ているアニメやマンガも、学校で勉強する学問の対象になる」
というようなこと(もう8年も前でうろ覚え)を高専の授業で「ショーシャンクの空に」を丸々流すような英語教師に言われ、みんな笑っていたけれど、僕はもしもそうなったらどんなに素晴らしいことだろうか……と思わずにいられなかった(それはもちろん、楽しい遊びの延長線上にあるものとしてだったが)。
本書はまさに章を講義の回数に分け、マンガ・アニメ・ゲームを通じてポップカルチャーとは何かを考える内容となっている。
それらは単に複雑極まるポップカルチャー史を追うだけではなく、著者の主観も含みつつも、ドストエフスキーが日本の漫画界に与えた影響、コロナ禍のVRゲーム体験から見えた文学性など新時代の「教養」つまり自己探求と社会批評の術を論じている。
中でも印象に残ったのは、就職氷河期世代の著者から見た平成から令和にかけて変化した自己啓発本の売れ筋と、2010年代以降に異世界転生モノの人気が著しく高まったことの考察だ。
もともと選ばれた種族である人物が、更に上の最強・無敵を目指す方法論を謳う自己啓発本への指摘は「そもそも、量産型であろうとなかろうと最前線で戦うロボットとそのパイロットならエリートに決まってるだろ?」というツイッター茶飲み話を思い出したし、同じく異世界転生を浄土信仰と短絡的に結び付ける議論はどうも流行りの上っ面だけを見ているようであまり好きではなかったけれど、実際に仏教的な思想が読み取れる作品から見た就職氷河期世代の死生観を通して伝統の断絶が進む現代人が原初的な宗教観と疑似神話・民話にたどりつくといったところが興味深かった。
萌える魔王、ツンデレヒロインを演じるおじさん
①世界を太陽の昇らない月夜に閉じ込め征服しようとしていた大魔王が、白いファントムマスクとメイド服を身に着けた変態勇者の魔法で女体化させられて婚約を迫られる。
②現世でわけもわからないまま命を落とした中年男性が、SFウォーゲームの世界に負けん気の強い美少女として転生し、近くにいる誰もが惚れてしまう「主人公」に対する本音と口から出る言葉とのギャップに戸惑いながら、定められた運命に抗う。
3月はそんな物語のアイデアを妄想して(もしくはただ感じて)いたが、結局のところ主役となるキャラクターの個性を掘り下げられないまま、「あんなシーンがやりたい」とシナリオのことばかり考えていた。そして何か即効性のある救いを求めて、本棚の創作論に手を伸ばした。
藤田和日郎は『読者ハ読ムナ』で「物語を引っ張っていく推進力、感情とパワーを持った主人公じゃないと、少年漫画では通用しない」とし、キャラクターのギャップ(思わぬ一面)やすべての設定と行動に徹底して「なんで?」と自問自答して腑に落ちるまで掘り下げることを説いた。
小池一夫は『小池一夫のキャラクター進化論』でキャラクターを魅力的にするために必要な三つの要点を《テンプレート》《ワンポイント》《ディティール》に絞り、その個性を細部のリアリティにこだわって調べることとキャラクターのことを掘り下げて考えることを説いた。
そして山本弘は『料理を作るように小説を書こう』で「キャラクターの性格にレイヤーを設定する」として、第一印象のA層、その第一印象を壊すような意外な面であるB層、さらにC層とその下と深めていくことを論じた。
三者三葉の創作論に通じるのは「一般論的な表の顔を裏切る意外性」を考え抜くことだ。それは理詰めであったり、キャラクターの語るに任せるオカルト的な発見であったりする。
そして僕の場合「見た目は少女だけど実は男性である」とか「愚者に見えるけれど実は超人的な才能がある」といった相反する属性をキャラクターに付与しただけで止まってしまい、その設定の理由や根拠までがつかめず「このままでは何かが足りない」「面白くない」と感じていたのだ。
なぜこうなってしまうのか。一つ考えられるのは、自分の頭で考えているほど、キャラクターのことを言語化しきれていないことだ。
僕は以前から「アイデア出しや執筆途中も含めた創作のすべてを公開しながら、作品を完成させる」ことを目指そうとしてきたが、それはまるで素材のジャグリングを動画撮影するようなもので、テキストに「こう見られたい」という虚栄心が混じって逆にアイデアが先細ってしまう。
そして僕は山本弘の「性格を箇条書きにしたとたん、キャラクターは死ぬ」という指摘に胸を打たれた。ノートにキャラクターの設定を思いつく限り箇条書きにして「さて、これはなんだろう?」と腕を組む時の面白くなさが、僕の一日から創作活動を遠ざけていた。
確かに面白いばかりが創作活動ではないが、本当ならもっとキャラクターの生き生きとした姿を思い浮かべたいはずだ。
ここで立ち止まらず、もう少しキャラクターの掘り下げに真剣に取り組みたいが4月からどうなるかはわからない。また一から白紙では基礎体力もつきようがないが、せめて短編を書いて有言不実行から脱したい気持ちはある。
おわりに
サムネイルに使用した写真は先日撮影した国指定史跡・米子城跡の二の丸枡形にある石垣である。
米子ガイナックスの赤井孝美氏らが進めている「戦国を終わらせた男・吉川広家」のイメージアップと米子城跡の発掘調査が重なり、荒天の中行われた現地説明会に参加した。
ちらと見るだけではなかなか魅力を感じにくかった石垣にも、かつて倉があった側と二の丸の正面とを見比べて石の形状や積み方に大きく差があることを見つけたり、500年もの間に風化した石の割れ方などを見ると、胸にジンと浪漫が沁みるのを感じた。
振り返ってみれば僕は(今のこのテキストもそうだが)自分のことばかり書くことに知恵を絞ってきた。自分の感じたことや考えたこと、夢、そして誰かに反応を返してほしいという願いとか。
それは初めから自己の内にもう一人の自己を他者として招き入れる、壁打ちをするような対話で、むしろ内圧を高め現実の他者との距離と壁を分厚くすることだった。
しかし、そうして自分の殻に閉じこもって目隠しをしながら見ていた景色はある時点では天まで届く高さだったかもしれないが、むしろ何もかもが遠く自分の手が誰にも届かない世界だったし、そのチカラも結局は自分ひとりで手に入れたものではなく、周りの皆に支えられながらできていたものだったことを見落としていた。
今はただ、去りゆく少年期に感謝をしつつ、地に足のついたところで自分に何ができるかを試したい。
(終)