活動報告:ネガティブ凝り性
それで、何をしていたのか? →何もできなかった。
あえて言えば、生きてから死ぬまでの限られた時間のなかでもがいていた。
不規則な生活をしていれば翌日の意志決定さえも不規則になるということが周知の事実であっても夜中にパソコンやスマホでTwitterやYoutubeなどを見ることをやめられなかった。
なぜか? 恐れていたからであろう。
なにを? 孤独を。
例えば施設のグループワークで、大勢の他者の前で自分の性癖のうち「これならば打ち明けられるだろう」というラインのものを堂々と暴露してみせ、その後に押し寄せる「僕はいったいなにをしているのだろう」という不安のような後悔のような感情に押し流されるまま心の殻を分厚くして閉じこもってしまうように。
これぞ「イタい」とは言い得て妙だ。コミュニケーションは時として痛みを伴う。それでもこの一瞬だけでも心を通わせたい、同じ方向を向いた時を過ごしたいと願ってしまう。それはいけないことなのか。
Twitterでも、大手に比べれば月とスッポンの発信力であってもひとつふたつリアクションを貰うのが嬉しいし、思わぬところで名を呼ばれて驚いたりもする。その細々とした蜘蛛の糸を求めていると言っても過言ではない。
しかし、どこまで情報の海に浸かっても自分が求めるレベルの理解と共感は得られないという諦念もある。
それはまさに、欠けたるものの補完という魔法のように、奇跡のように壮大な方法でなければ為し得ないのだということに、早く気付いて行動を改めるべきだったのかもしれない。
シン・エヴァンゲリオン劇場版を見た
万難を排して初日に見た。前列で飲まず食わず二時間弱見届けたので途中から頭痛がした。A.T.フィールドの強い光刺激はソフト化された際には修正されているといいが……。
思ったのは「今まで僕と同じだと共感していた碇シンジが成長して『シンジと君とは違う生き方ができるよ』と解呪してくれた」ような気がした。「今これを見ているお前はどうなんだ?」とカメラを向けられた、という解釈でもいい。
僕にとっての碇シンジ像が「内罰的で、自分に自信がなくて……」というような虚像も虚像で、ある種の自虐による自己肯定のために都合のいいところだけ利用していたのはわかっているつもりで、それでも食欲を失ったりあてもなく徘徊したりする彼の姿には双極性障害の自分を重ねながら同じく鬱を背負った庵野監督を思わずにはいられなかったし、逆にそこから立ち直っていくなかで見えてくる心の芯の太さは紛れもない彼個人の特質だ(ゲンドウやアスカらを説き伏せるための役割とシナリオを与えられたとも言われているが)。
観賞後に感じた爽やかな感じは「また会うためにさようならと言う」的な面でリアルとフィクションを並び立たせることを肯定できた感覚と捉えられたが、その幸せは一週間も続かなかった。僕が再び心のためか体のためか鬱による迷いの森に入り込んだからである。
朝起きても体が動かない
通勤の拒否。連絡の拒否。それを全身で表現してみせるかのように、抗いがたい金縛りのような眠りの状態になってしまった。
単に生活リズムの乱れから睡眠で十分な疲労回復ができておらず、長い睡眠時間を必要としているのか。
早寝早起きとバランスの良い食生活を続ければ改善するのか。
しかし「そんな正論で解決できる問題ではない」と内心は訴えている。確かに気合いどうこうでは無理かもしれないが、その拒否反応を受け入れてしまっている自分もいる。
とどのつまり僕が求めているのは解決ではなく共感だ。自分で自分をわざに苦しい立場に追い込んでおきながら、助力と救済を乞う。自分でやろうとしないことを他人に担わせようとする。
僕には足手まといで役立たずの無能になる時期があって、自己嫌悪に陥ることもしばしばなのだけれど、結局周囲の善意に支えられて生きていることができる。ごく当たり前のことなのかもしれないが、ありがたいことだと思う。
形から入っても結果が伴わない
去年から始めたスマートノート術は全然うまくいっていない。
そもそも家に帰ったらノートを放置して「毎日書く」という習慣を怠っているし、書いて早々に気が利くアイデアがゲットできる類いのものでもないので成長の実感もなくちょっと大きめのメモ帳と化していた。
これではいけないとエコバックに百均のネックストラップを付けて家中どこでも連れ回せるようにしたり「五行日記」からやり直してみたりしたが、そもそも今の僕は事物の「なぜ?」を掘り下げて考えられるほど脳を使っていないので一週間前の記憶も引き出せない。そのため日記は毎日なんとか空白を埋める必要があった。
困ったら三食と間食の内容で半分は埋まるが、なぜそれを食べたのかとか、味はどうだったかとかを自分に問いかけようとしないので、まだまだのようである。
またプチコン4を用いたプログラミング学習を始めようと思ってノートを買ったりキーボードを家のどこでも持ち歩けるようにしたりしても、なかなか最初の一歩が踏み出せない。
最終的にPS Vitaの「マンガ・カ・ケール」による学習マンガを作ろうと大風呂敷を広げてみて図書館からもいくつか学習向けの本を借りてみたが積んだままで全然読めていない。
ひとくちに「作業に向かうための環境づくりが足りない」と言っても、その先にあるのは物置小屋と化した自分の部屋の掃除&断捨離であり、せっかく買った古書を手放したくはないので結局生活圏内でなんとかするしかない。「なんとかするしかない」と言ってる時点でタスクは別の気安い優先度のものが先に消化されていき、たぶん一生終わらないし始まらない。
僕は結局準備するところまでが楽しいだけで終わる人間なのだろうか。
そうではないところもあると証明できたらいいのに。
(おわり)