20201008 七峰らいがnote開設1周年を祝して
過ぎ行く1年の早さを嘆いても人生にアディショナルタイムは無いが、自分の10代という過去との肉体的な別れから生まれたこのアカウントが先月末にめでたく1歳となった。
一年前の初投稿
僕はと言えば、相変わらず寝床でスマホを通してツイッターを眺めながらおやつ代わりにYoutubeやニコニコ動画をつまんでいる。およそ精神的にはまだ子供であろう。それが25歳の────若さの美徳だと言うつもりもない。
今年の3分映画宴には参加しなかった
特に理由はない。映画を撮る時間がなかったと言っても、人並みに一日は24時間であるからして。
今年の僕は3分映画に対して真剣になれなかったと言えば、そうかもしれない。僕はなんだかんだ言って「自分が女装しさえすればウケる」というつもりで作った去年のあれよりも面白い作品が作れないのかも。
思いきりのよさ、という意味ではYoutuberにもならなかった。エッセイは何本か書いたけれど、いくら自分の人生を切り売りしたとしてもそれは後ろ向きな表現活動であって、そこには「いまだこの世にないものを作ろう」という向上心がない。
長編小説も書けなかった
この1年間にnoteとノベルアッププラスを主として長めの小説やエッセイを書こうとしてきたが、どれも広げた風呂敷をたたみきれずに年末を迎える。
特に「ぼくん家の段ボール箱 -A Cardboard Box in NO NAME-」は「七峰らいがセルフインタビュー」と称したいわゆる作者とキャラ(インタビュアー)の漫才を書いた創作ブログで、このインタビュー記事の文字数がその他の自作小説の文字数を超えてしまったあたりいかに自分が「物語を作りたい」より「自分を売りたい」かが浮き彫りになっていた。
「作者が10代の頃(2005~2014年)に影響を受けたものや現在の心境などについて振り返る内容」と説明文に書いているが、最近見たテレビのことなどを話題のきっかけにしていて一貫性がない。
他にもロボット工学三原則短編コンテストに乗っかって「七峰らいがの似姿として作られたロボットが、故人となった七峰らいがの代わりに筆を執る」という設定の小説を書いてみたが、この作品を通して何を書きたかったのか自分でもわからないまま行き当たりばったりに主人公を破壊して終わらせてしまった。即興書きの弊害か。
「普段から死にたがっていた人物がいざ死に瀕してみると、みっともない姿をさらけ出す」という人間性を暴きたかったのか、それとも「本当の死とは記憶から忘れ去られてしまうこと」というようなことを言いたかったのか。どちらにせよ、乱高下する不安定な気分の中で「これぞ」というものをまとめきれなかった。
ただ「あれだけ小説家になりたいと言っていた、作家志望の七峰らいがは死んだ」というイメージだけ心に重く残った。だが確かに死んだのに、まだ棺桶がごつごつと音を鳴らしている。
とどのつまり僕の創作というものはそのように腐臭を放つものだ。身ぎれいにはなりようもない。……けして評価が少ないからそう言っているのではない。
七峰らいがは眠りたい。だが本当に眠らなければならない時に限って眠らない
夕方から夜にかけて気分が高ぶりやすくなる性質の僕は、早寝をしやすくするために努めて心を鎮めなくてはならないが、自分にとってそれは抑圧そのものなのだ。
趣味の時間が奪われる、と表現したが心療内科の先生には「実生活が充実している人は『仕事の時間』『趣味の時間』と言い分けることはしない」と論破された。
寝落ちするまでスマホをつつき続ける生活は、就労移行支援施設に通う平日にも影響してスタッフに多大なる迷惑をかけるし、そこまでしてツイッターで得られるものというのも大概がニヤけ笑いと憎悪の二種類で、数日を無意味なものにするデメリットに対して時間をかければかけるほど大したことがなく虚しさを禁じ得ない。それでも何かあると思って更新スワイプをし続けるのは、たかが一個人に過ぎないフォロワーにかける期待が重すぎるのか……。
時に、あえて岡田斗司夫流に言えば僕は「うつになる努力」をしているのだろうな、と思うところがある。心を病み、体を病み、生活リズムを崩す努力である。一般に言われる努力と違って無意識的に為されているだけにたちが悪い。
それが具体的にいかなるものか自分の主観だけではわからない。いや、最近は日々の記録をノートにつけてもいるのだが、例の寝床で一日中ツイッターしてる状態になると丸々一週間は空白ページになってしまって後から己の行動を反省することもできない。
結局僕にできるのは、毎日決まった時間に睡眠導入剤を飲むことと、早く風呂に入って早く布団に潜り早く目を覚ますことしかないわけで、その障害になるものはたとえリアルタイムで見なければ一生を後悔するテレビ番組やネット配信などであってもスケジュール帳から除外しなければならないということだろう(先述の「抑圧」にまだふてくされている)。
改めて、七峰らいがnote開設1周年を祝して
僕はこの1年を「10代の自分との別れ」と定義して過ごしてきた。
ただの無職から就労移行支援施設で職を探す無職になって、もう朝が早いと起きられないとか深夜のツイッターがやめられないとかで昼夜逆転しながらダラダラと時間を過ごす生活はやめて、規則正しいスケジュール帳の世界で充実した(楽しい、満足感のある)日々を送るために頭を使わなければならなくなった。
それは同時に、自虐癖のある自分を「もう自分で自分をいじめなくてもいいんだよ」と赦してやることでもあった。自分の殻に閉じ籠って外の世界の厳しさを恐がっていても、ただただ周囲との関係の溝を深めるだけだったのだから。
しかし、その「10代の自分」は別れるどころか現在の自分と表裏一体であり、心に隙あらばすぐにも現在をひっくり返そうとする、意外と油断ならないヤツなのだ。
だから僕は、なんとしても大人の余裕というやつを体得してゾンビ化した思春期を迎え撃たなければならないのである。
このアカウントのアイコンになっている、タバコを咥えて飄々としたメイド(この手のキャラクターが戦えば強いと相場が決まっている)のように。
(終)