【七峰】再読「火の鳥 未来編」
【日報】2024/9/22付
ほぼ日の學校で「手塚治虫。天才と呼ばれた人を、近くから見ていたら。 清水義裕 (株式会社手塚プロダクション 取締役)」を視聴して「小学校で読んで以来だけど火の鳥読み直してみるかあ!」と思ったのでこの角川文庫版2巻(未来編)と9(宇宙・生命編)・14巻(別巻)を買ってきた。
なぜこの三冊かというと、未来編・宇宙編・生命編が初読時に衝撃が強かった作品だったのと、角川文庫の14巻は未公開原稿などが入っていてマニア的で興味を惹いたからだ。
未来編初読時の感想といえば何と言ってもナメクジ文明の衝撃と、マサトがタマミを再現しようと造ったロボットが踊りながら「ホホーホホホ/オホホピピピピ/ホホピピピピーピ/ピューピュー」と発するなんともいえない狂気に対する「なんかすごいものを読んでしまった」という感じだった。
しかし改めて読んでみると未来世界の閉塞感……地上の豊かさをすでに失っていて肉体的・精神的にも後退しつつある文明であったり、高度な人工知能と人類の主従関係が逆転して核戦争のスイッチすらも人間の手では止められずAIの癇癪めいたそれで世界が終わってしまうところに「ありえそうな恐ろしさ」を感じるのだった(実際問題、核戦争自体は20世紀末の一時的な不安ではなく今現在も起こりうるのだが)。
僕はSF作家の長谷敏司氏が提唱する「人格回路/装置という小人が存在しないAI」という理論に賛同していて、ハレルヤやダニューバーのようなどこか人間臭いAIはレトロフューチャーの産物だと思うのだが、今の世の中はまだ「中に小人がいるAI」像のままChatGPTとかAIのディープラーニングを捉えているふうに見える。テレビニュースですら、ChatGPTが敬語から少しくだけた文体になっただけで驚いたようなリアクションを取るからだ。
もっとも、そのような「こころ」がないAIにすらも人格を見出してしまうのはアトムやキカイダー、ドラえもんを生んだ国としての国民性なのかもしれないが。
よりオタク的なことを言えば「メタルギアソリッド」シリーズの「愛国者達」や「LIVE A LIVE SF編」の「OD-10」はまさに小人が存在するAIと言えるほど人間臭い(愛国者達は大衆をそれと気付かせぬまま利用することにエリート意識を持っており、OD-10は乗組員の不和を助長する)し、その人間臭さによって作中の人物やプレイヤー(あるいはネット配信者とその視聴者)との意思疎通が可能となっている。
そこには「人工知能に人間が無思考で従うような世界があってはならない」というテーマが根底にあるので、その恐怖を伝えることには成功しているという次第だ。
とはいえ僕自身も「人格回路/装置という小人が存在しないAI」についてはっきりとした何かが言える立場にはなく、ただ昔ながらの人工知能と今現在AIと称されているものとは根本から違うのだ、程度にしか理解できていない。
「未来編」のクライマックスは火の鳥から地球人類へのメッセージで終わるが、僕や世間一般は未だにこの「未来」への答えを出せてはいないようだ。それもこれも、世にある環境問題の解決策があまりに遠大すぎるのと、それくらいに地球環境のあらゆる面が取り返しのつかない状況になっているということだが。
かと言って「みんな死ぬのだから未来に希望なんかない」という実存的ニヒリズムにもなりきれない。僕だって水溜りの上のナメクジになりうるのだ。
だからなんだろう……ここにあるのは希望だが同時に絶望、ある種の諦観もある。
その二律背反が「人間を描く」ということなのかもしれない、とここでは結論付けておく。
巻末コーナーにある風刺マンガに故・安倍晋三元首相がモデルの顔があって幻滅しつつ「まあ時の政権批判は手塚治虫もやってたか?」と思い直したが(この巻の初版発行はH30.6.25)、末尾にある「絶滅危惧種」は火の鳥か人類か、という4コママンガにはちょっと居ずまいを正した。
最後の最後で純粋に手塚マンガを読むという興が削がれた向きもあったが、今後も折に触れて手塚マンガの深淵に触れてみたく思う。
(了)