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4年前期 東洋史学(水2)オスマン朝03

前回のあらすじ

13c
オスマン侯国のベイリク→スルタン
州…アナトリア、バルカン、エジプト
県…下位区分
征服した土地が県に置き換わる
サルハン侯国→サルハン県
アイドゥン侯国→アイドゥン県
爾後、弱小の国オスマン侯国がエジプト、イラク、ドナウまで領土を拡大

議題:オスマントルコやテュルクと言えるのか否か?

・歴史
テュルク諸民族⊃オグズ族(オグズハン)
オスマンベイはそれに連なる意識
13c末~14c初、周辺小国もテュルク系アイデンティティー
自分を差異化したい、良家出身アピール(18cに家系図いっぱい作る日本)

周辺小国を支配下に置くとテュルク性を主張しなくなる
19c末の民族主義運動の中で再発見されていく
→「"トルコ"共和国」へ

・人種民族血統
スルタンの数=36
母がトルコ系なのは最初数例だけ
第7代目スルタン、メフメト2世(コンスタンティノープル占領)、15c
侯国の女性、バルカンのキリスト教国、ビザンツ帝国、セルビア王国(キリスト教系)と政略結婚
第8代スルタン、バヤジット2世
スルタンの相手は女奴隷になる

・ハレム(後宮) 「阿拉伯語:ハラム(日:「禁止」)」由来 
アル=ハラマイン
アル=シャリーファイン
両聖都(メッカ、メディナ)
ハレム↔ハラム(禁じられていない)

女奴隷…ジャーリエ 「ジャーリア(女奴隷)」
実際は「女官」

彼女らの名前()
ギュルスタン…薔薇の園
デュッリー…真珠
ヒュッレム…朗らかな

自由人のムスリム女性の名前(宗教由来)
ファトマ(ムハンマドの娘ファーティマ)
ハーティジェ(ムハンマドの最初の奥さん(15~20歳上)ハティージェ)
アーイシェ(ムハンマドがその後娶った女性アイーシャ)

イスラーム世界の奴隷…扱い方がイスラーム法による決まりが定まっている
ムスリムの奴隷化は禁止
非ムスリム(カトリック、ギリシア正教徒、アルメニア清教徒、ユダヤ教)は奴隷化ok

女奴隷は結婚したら自由身分じゃないといけないから解放
間の子供も認知すれば自由人

男奴隷
君主、高官の側近として一般ムスリムよりも権力を握る
スレイマン1世、大宰相(首相)イブラヒム・パシャも奴隷出身
イブラヒム・パシャ邸宅イスタンブールに、美術館に
元ギリシア正教徒
ウクライナらへん→捕虜→イブラヒム・パシャ→スレイマンに献上

オスマン朝のお姫様を妻にする

奴隷の由来
・奴隷貿易
中東は東亜よりも人がいない
→ガレー船の漕ぎ手(帆船、蒸気船)、家内奴隷
人間は商品、殺さない
・戦争捕虜、有力者から献上
・クリミア・ハン国、ジョージアから献上

バルカン等に領土拡大
多様なバックグラウンドの人を支配下に
君主はムスリムだが、ムスリム以外の人もたくさん暮らしている
キリスト教徒も多い街も多かった
ギリシア正教徒、アルメニア清教徒、カトリック、ユダヤ教徒

地中海世界、イタリア、北方(ロシア、ウクライナ)
奴隷が供給されなくなる
コーカサス地方からの奴隷が増加、ケスセス人、アルハブラ人
17cまで


家系図

トルコ系の妻は最初と最後だけ
「オスマン・トルコ」じゃない
多民族国家だから
「オスマン朝」「オスマン帝国」という表記

国号

ミドハド憲法「オスマン国」(1876年)
従前の公文書「至高の国家」デヴレティ・アリイエ

オスマン朝拡大期の歴史

アナトリアから始まって最大版図にどのように至ったか?

アナトリア北西部時代~コンスタンティノープル征服まで


②オルハン(在位:1326-1362)

ブルサ…絹織物で有名、初期の王様の建物残る

ビザンツ帝国で内紛
有力家系カンタクゼノス家 vs. パライオロゴス家で皇帝争い
カンタクゼノス家ヨハネスが娘をオルハンに嫁がせて軍事的援助を受ける
パライオロゴス家はカレスィ侯国と協力
ヨハネスの要求でオルハンがバルカンに軍を派遣
1354年にゲリボル獲得
カレスィ侯国で内紛起きて上手い感じに併合
オスマン侯国はマルマラ海、エーゲ海に進出
ビザンツ帝国の手引きによってバルカンに進出
第2の首都エディルネも獲得
オスマン侯国が軍事力に物言わせたわけじゃない、応援要請あって進出した
侵攻ではない

③ムラト1世(在:1361-1389)
ブルガリア、セルビア、テッサロニキw(土語:サロニカ、セラノキ)
→エーゲ海がオスマン領に

④バヤズィト1世(在:1389-1402)
アナトリアの君侯国の大半を征服
バルカン出身者も軍に組み込んで征服活動
コンスタンティノープル征服を試みる、包囲
ヨーロッパで重要な都市、ギリシア正教会、キリスト教国の首都が脅かされる
→ヨーロッパ、危機感覚えたほうがいい
十字軍派遣
ニコポリスの戦い(1396年)
ハンガリー王中心 + 仏 + イングランド + ボヘミア(ヨーロッパ各地)
オスマン朝が勝利
オスマン朝国境はドナウ川まで拡大
14c
支配が19cまで続く
独立運動起きる、欧米列強が絡む
バルカン地域には小国
オスマン朝の領土
バルカンにある国の間には暗黒時代扱い
「オスマン朝の暴力と圧制におかれていた!!!!!」
オスマン朝支配期ではなく、19cにバルカン運動独立運動の中の文脈
ヨーロッパ諸国が介入、利用、喧伝→「暗黒時代」
バルカンの封建領主の軛から脱してやった説

現代の理解:
1.オスマン朝の支配は合意的(合理的?)であった。服属した領主はオスマン軍団に歓迎
2.オスマン朝支配層にバルカン出身者が相当数いた

圧制してたら500年も続かない

オスマン朝瓦解
ティムール朝(テュルク系、モンゴル系女性と)
西に遠征活動
→バルカンのテュルク系小国がティムール朝に靡く
原因
1.最初の拡大速度早かった
2.テュルク系小国は支配層にいたのか?
ハヤズィトは獄死

その後元の領土を回復

コンスタンティノープル征服

オスマン朝瓦解後復活
アナトリア~バルカン

⑦メフメト2世(在:1444-1446, 1451-1481)…あだ名「征服者」ファーティフ、コンスタンティノープル征服したから→帝国としてのオスマン朝に脱皮(性格が変わる)→地中海世界への進出
宗教的な父が引退、政治嫌、息子にスルタン譲る
国内情勢落ち着かない、メフメト年少
もう一度父が復権

1453年にコンスタンティノープル占領
→ビザンツ帝国滅亡

オスマン朝首都は支配の流れと一致
ブルサ→エディルネ→コンスタンティノープル→今アンカラ(400万人。イスタンブールは千数百万人、文化の中心)
エディルネは自然残る、コンスタンティノープルで疲れたスルタンが狩りに出る
メフメト4世…あだ名「狩人」avcl(アブジュー)
公文書の発行地書く、エディルネで狩りしてたからエディルネになっていた

スレイマン1世…立法者カーヌーニー
仕組みを作った


次回:メフメト2世がコンスタンティノープル征服してどのように拡大したか

5/1休み、5/8ある


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