先輩に飲みに誘われて...?
入社して一年が経って、二度目の繁忙期。
12月は特に会社の空気が張り詰めていてピリピリしている。
納期に間に合わせなければならない案件が山のようになっており、デスクはまるで戦争のようだった。
部長の怒声も毎日響いて、同期の皆は顔がやつれている。
先輩達も自分の仕事で手いっぱいで後輩の僕らは足を引っ張らないようにするのが精一杯だった。
そんな日々が続いていたある日、事件は起こってしまった。
「おい!T社の案件、担当は誰だ!」
部長の問いかけに背筋が凍る。
この聞き方は間違いなく問題が起こった時だからだ。
「はい!僕です!何かありましたか」
「何かありましたか、じゃねぇんだよ。納期伸ばすように説得しておけっていったよな?今T社から催促の電話がかかってきたんだが?」
その言葉を受けて、僕は顔面が真っ青になった。
他の業務で忙しく、すっかり忘れていたのだ。
「すみません!連絡忘れていました。申し訳ございません」
膝に顔が付く勢いで頭を下げるも、部長の怒号は鳴りやまない。
オフィスからパソコンのタイピング音が消え皆、僕達に注目していることが感じ取れた。
恥ずかしさと不甲斐なさ、自分の無力さに泣きそうになっていると、後ろからよく知る声が降ってくる。
「部長、この件私に任せてください。T社とは以前別の案件で仕事をしたことがあるので、私の方から説得してみます」
「ふん、出来るなら誰がやっても構わん。こいつ、しっかり教育しとけよ」
「申し訳ございません。私の指導不足です。再度教育しておきますので部長は別の案件よろしくお願いします」
そういって僕の隣で深々とお辞儀するのは、入社時から僕の教育係として担当してくれている瀧見雪菜さんだった。
嵐が静まると、オフィスにはまた無機質なタイピング音が鳴り響く。
先輩は自分のデスクに座り、T社へとすぐさま電話をしているようだ。
その隣に立ち、行く末を見守ることしか出来ない僕はこのまま消えてしまいたいと内心思っていた。
数分後、電話を終えると先輩は僕の方へと顔を向ける。
「タスク管理のやり方、教えてたわよね?」
「はい、すみません。先輩の顔に泥を塗ってしまって」
「そんなことはいいの。クライアントにさえ迷惑をかけなければオッケーなんだから。とりあえずT社は納期伸ばせたから、安心して?」
心からホッとして、僕は何度も先輩にお礼を述べた。
そんな様子を笑みを浮かべながら見つめられて、仕事に戻るように言われ自分のデスクに腰掛けた。
向かいの席に座る先輩は何事もなかったかのようにパソコンに向かっていて、心底仕事の出来る先輩はカッコいいと思えた。
*
「お疲れ様、慶くん。残業偉いね?」
残業で社内に残っていた僕に先輩が声を掛ける。
「先輩も、お疲れ様です。僕のせいで残業になってしまってすみません」
「全然、私は慶くんの指導係だし。そんなに気にしないで?次から頑張ればいいんだから」
その言葉に僕の心は少しだけ軽くなる。瀧見先輩はいつも僕に優しくて、指導してくれる時は厳しくしてくれて信頼が置ける人だ。
社内でも人気があり、同期からは羨ましいと言われることもあった。
僕も瀧見先輩が指導係で本当に嬉しい。
「慶くん、もうすぐ仕事終わりそう?良かったら一緒に晩御飯でも食べに行かない?明日休みでしょ?」
「はい、是非!すぐ仕事終わらせます」
「うん、ゆっくりでいいよ?私待ってるから」
それから僕達は会社から少し離れた個室の居酒屋に向かうことになった。
「慶くんの仕事ミス記念にカンパーイ」
運ばれてきた生ビールのジョッキを持ち上げながら先輩はいじわるな顔で笑う。
僕は気まずい顔でジョッキを合わせた。
「冗談キツかった?でもね、私内心嬉しかったよ?」
「え?なんでですか?」
「慶くん、教えたことちゃんとやってくれるし今までそんなにミスとかしなかったでしょ?だから慶くんの事、守れて良かった。先輩っぽいこと出来たなって」
「先輩はいつも助けてくれるじゃないですか。いつも感謝してますよ」
笑顔の先輩は居酒屋の照明に照らされて、ほんのりオレンジ色に頬が染まっている。
いつも美人で見とれてしまうけれど今夜は更に魅力的だ。
「そっか、私ちゃんと先輩出来てたか。慶くんは私にとって初めての後輩君だったから、不安だったんだよね」
「先輩の初めてになれて光栄です」
「もう、今日はそんなに堅苦しくなくていいよ?普通に名前で呼んでもいいよ?私も名前で呼んでるじゃん。二人の時はさ」
「いや、さすがに名前で呼ぶのは」
「先輩命令です!ほら呼んでみて?雪菜さんって」
まだ一杯目だというのに既に酔っているのだろうか。
今まで同期や他の先輩を交えて飲み会に参加したときはこんな風に絡んでこなかったから妙に緊張してしまう。
もじもじしている僕に先輩はグッと顔を近づけてきて催促の言葉を掛ける。
いつもより近い距離に驚いて、意を決して名前を呼んでみた。
「ゆ、雪菜先輩」
「ちーがーう!雪菜先輩じゃなくって雪菜さん!ほらもう一回」
「雪菜さん、あーもう恥ずかしいですって」
頬が赤くなる感覚がする。僕は恥ずかしさを紛らわすために生ビールを一気飲みした。
「いい飲みっぷり。すいませーん、生追加で」
店員さんがやってきて、漸く先輩の距離が正常に戻る。ホッと胸を撫でおろす。
先輩ってこんな風に他の男にもグイグイ行くのだろうか。
そう疑念を抱くと、胸の奥がキリっと痛む。
あれ、なんで今痛かった?
その答えを探していると、先輩はジョッキに付いた口紅をおしぼりで拭き取り店員さんに手渡していた。
新しく届いた生ビールを僕にも渡して再度見つめあう形になる。
「慶くん、顔が赤いよ?酔った?それとも照明のせい?」
「しょ、照明のせいです!さすがにまだ酔ってません」
「ならよかった、私結構お酒強いから自分のペースで飲んでね?」
こういう些細な気遣いにまた胸が高鳴ってしまう。
先輩は実は小悪魔的な女性なのだろうか。
女慣れしていない僕には少々刺激が強い。
他愛もない雑談と、仕事の話をしていれば時間はどんどん過ぎ去っていく。
「慶くん、まだ飲めそう?」
「そうですね、大丈夫ですけど」
「ならよかった。二軒目いこっか?近くに私の行きつけのバーがあるからさ」
その前にお手洗い、と告げて先輩はトイレに立っていく。
その隙に会計をしてしまおうと伝票を探すも見当たらない。
バインダーだけ残されているが肝心の紙がないのだ。
まさかと思って先輩が帰ってくるのを待っていれば、案の定支払い済みだと告げられて、店を出ることになった。
「先輩、僕が払いますから!」
「いいのいいの、先輩に払わせて?」
「でも、今日助けてくれたお礼もしたいですし」
「んー。慶くんって頑固者?じゃあさ?」
先輩は、立ち止まって僕の耳元に近づくと小声で悪魔の囁きを放つ。
「雪菜って呼び捨てしてくれたらバーのお金は払ってもいいよ?」
「なっ!それは出来ません」
「じゃあ、黙って奢られてくださーい」
無邪気な笑顔を僕に向けて先輩は歩き出す。
囁かれた耳が熱くて千切れてしまいそうな感覚が襲う。
やっぱり先輩は小悪魔だ。
二軒目のバーは小さな店でカウンターしかなく二人で横並びに座る。
先輩のお勧めカクテルを飲んでいると、不意に先輩が顔を覗き込む。
「慶くんって彼女いる?」
「居ないですよ、居たら先輩と二人で飲みに行かないですよ」
「あら、そうなの?彼女が居ても飲みに行く人多いから意外」
「先輩は色んな人と飲みに行くんですね。この店に連れてきたのは何人目ですか?」
「確かに色んな人と飲みには行くかな。クライアントの人だったり、同じ会社の人だったり。でも、この店に連れてきたのは慶くんが初めてだよ?」
先輩の初めて宣言で、僕は時が止まったかのように見つめることしか出来なかった。
「そんなに見つめて、好きになっちゃった?」
小首を傾げる仕草も、見つめ返す瞳も、何もかもが大人の女性を演出するには十分すぎて。
二秒ほど固まった後、僕は慌ててカクテルを飲み干した。
「からかわないでくださいよ」
「否定しないんだね。私は好きよ。慶くんの事」
「嘘ですよ。先輩が僕なんかを好きになるわけないじゃないですか」
「あれ?私ってそんなに信用ない?慶くんに嘘ついたことある?」
「それは、ないですけど」
先輩はマスターにワインクーラーを注文する。
マスターは手慣れた手つきで氷を砕きグラスに液体を注ぐ。
オレンジジュースがグラスの三分の二注がれた後、その上を赤いワインが静かに重なって朝焼けと夕焼けが同居するようなカクテルが差し出された。
「慶くん、カクテル言葉知ってる?ワインクーラーの意味、それが私の気持ちよ」
そう言って、先輩は口づける。
どこまでも小悪魔で、少しだけいじわるな僕の先輩。
帰宅してネットで意味を調べて、僕が赤面したのは言うまでもないだろう。
fin.
久しぶりの投稿です。
いつも僕の話は暗くなりがちなのでありきたりな設定だけど
ハッピーエンド目指して書きました。
オフィスで働いたことないけれど、実際こんな風に女性の先輩が居たらドキドキするだろうなって妄想を小説にしてセルフ供給してみました笑
余談ですが、慶くんが家でカクテル言葉を調べたのは、雪菜先輩に携帯で調べるのはダメだと止められたからです。きっと帰るまで意味が何か知りたくてドキドキしながら帰ったんだろうな。雪菜先輩はいじわるなので慶くんのそんな反応を楽しんでることでしょう。
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