羞恥心
恥を捨てたのは恥をかかないためだ。
小学生の3から4年、いや、2年生の頃に開き直るということを覚えた。
小学生のころはたくさん失敗をするし、他人の失敗を沢山責める。
僕は失敗を責められるのがとてつもなく恥ずかしかったし、
「スケベ」だとか「女好き」とかそういう悪口には人一倍恥ずかしさをかんじていた。
だから薄ら笑いを浮かべる同級生が、僕が公園でうんこをしたことをいじってきたときに僕は開き直った。
「徳川家康もうんこを漏らした。僕は天下人だ」
こんなよくわからない返しももう小学五年生の頃にはししまっていた。
こんなよくわからない返しで、君たちももう笑っていた。
羞恥心を捨てた人間は(そう見えるだけでも)珍しいから面白い。
僕は恥を捨てて開き直るのが早かったから、小学5年生ぐらいには面白いとかそういう言葉で褒められる増えていった。「かっこいい」とか「さわやか」という言葉で褒められることはなかったので得しかなかった。
恥をかいても、失敗してもそれを「ギャグ」だとすればいい。それを「キャラの一部」だとすればいい。50メートル走の前に「俺今日調子悪いから」とか言い訳せずに、「俺について来れるか?」と自信ありげに言いいながら遅い、というボケにすればいい。
いつから僕の失敗は僕の得なんだと思っていた。
もっというと、僕は失敗なんてしてないと思っていた。
これが自分を誤魔化していたということに気が付いたのは本当に、本当につい先月とかそれぐらいのことだ。
周りの人は、僕が自分の失敗をしっかりと認めて笑いに変えれる人なんだと、とんでもない勘違いをしている。
だから僕は他人を賢いとはもう思えない。
もう一つ僕がしてきた羞恥心から逃れる方法がある
でもこれは誤魔化しなんかじゃなくて正しいことだと思う。
冷淡で、論理的で、批判的で、自信をもたないことだ。
僕のことを「冷静」とか「クールキャラ」と形容する子がたまにいるのは、
意味不明なフリップとか一発ギャグを送り付けてる人間に貼られるわけないラベルが貼られているのはそのせいだ。
自分がウルトラマンにはなれないことは小1の頃にはわかっていたし
自分がサッカー選手にはなれないことは小3の頃にはわかっていたし
自分がヒーローにも有名人にも慣れないことは小4の頃にはわかっていた。
でも、わかっていない子もいた。
「痛い」という言葉がすごく便利だった。
自分は冷めていて(つまり周りより大人で)、批判的な目で見れてますよアピールするために「痛い」という言葉をよく使っていた。
ブーメランの軌道はわかりやすくて、僕は「痛い」という言葉にとてもおびえていた。ちなみに、今の僕は痛すぎるのでどうしようもない。本気の開き直りだ。
論理的、つまり根拠があればたいていの行動で失敗はしない。
当たり前の話だ。非論理的な人間を見下してきたし、今楽しんでいる大喜利もネタ作りもやはり体系化された考えを用いている。これなら失敗しないし、失敗したとして自分の失敗にはならない。
理屈が通っているのだから、根拠があるのだから僕に失敗ないのだ。
1+1=2なのも、2じゃない時があるのも矛盾しない。論理的だから。
だから逆に、論理的じゃないことや根拠がないと行動ができなかった。
そんな奴には、奇跡もロマンもない。
目の前で奇跡が起こっていたとしても羞恥心を感じる可能性があるのなら、そっぽを向いて去っていく。
中学生の頃に何十回と奇跡を見てきたが全部、逃げた。
だから僕は本当は、面白くない人間で泣いている人を笑わせることができない。泣いている人を笑わせるのはロマンチックで奇跡なことだ。
泣いている人を笑わせることができない人間に、「面白い」なんて本当は絶対に言ってはいけない。
恥をかきたい。
でも恥をかかないための術を僕はどんどんと、雪だるま式で身につけて言ってどんどんと今も膨れ上がっている。
高校一年生の頃、落ちた高校の最寄り駅でその雪だるまを武器にしようと決心した。
その武器を使えば、豊中九中出身の男の子や千里丘中学出身の女の子の笑顔作れたりする。
だから捨てるわけにはいかない。恥を捨てるわけにはいかないのだ。
だから僕に奇跡は絶対に起きない。