短編小説 『ファインデイズ』 #あたたかな生活 #シーズン文芸
note文芸部が新たにお送りする #シーズン文芸 創作企画!
3・4月のテーマは「あたたかな生活」。
本日はこの方、い~のさんです!
◇
父親が消えて十日が経ち、母親が消えて二週間が過ぎた。
かねてから家を出て一人暮らしがしたいと願っていたが、家を出る必要も一人暮らしがしたいと訴える相手も、もうなくなってしまった。
顔を洗い、簡単な朝食を済ませると、コーヒーを飲みながらテレビのニュースを見る。以前までこの番組を担当していたアナウンサーは、別の人間に変わっていた。
どんな人間にも代役がいる。
それが望んだものであっても、望まないものであったとしても。
変わったアナウンサーは目新しくもなく、相変わらず同じ話題ばかりを繰り返していた。
それを飽きもせず毎日眺め続ける自分は、昨日と変わらず明日もきっと変わらないのだろう。飲み終わったカップを手にキッチンへと向かった。
食器類を洗うと、やかんに水を入れベランダに向かう。
そこには母が育てていた花を植えた鉢が所狭しと並んでいる。
ベランダの戸を開けると春が待っていた。
水彩画のような薄い青は空として頭上に広がり、見下ろす街並みは薄い膜を透かしたようにぼんやりとしていた。
目前にある鉢たちだけがいやにはっきりとしていて、そこに根を下ろした花たちもまたいやに鮮やかだった。
「おはよう」
私は花に話しかける。
「おはよう」
花が私に答える。
私と花との間にそれ以上交わす言葉はないようだった。
手に持ったやかんで鉢の一つ一つに黙々と水を与えていく。
花たちはじっと水を与えられていく。
朝だというのに街は随分と静かで、土に水が染み込んでいく音が聞こえる。
明日はテレビを付けるのを止めようと思った。
もしかしたら自分の中に食べ物やコーヒーが染み込んでいく音が聞こえるかもしれない。
「ありがとう」
一通り水をやると、花たちは私に礼を言った。
葉や花びらに水滴を携えた彼らは瑞々しさを取り戻していた。今が春だということを思い出したようだった。
「どういたしまして」
私がこの言葉を花以外に言うことがこの先あるのだろうか。
誰かに何かを与えられるような出来た人間ではない。
花はこんな私が与える水を吸い、美しさを保ち、いずれは枯れていく。
虚しいという感情はきっとこういうことなのかもしれない。
ふとひと月前に消えた友人のことを思い出した。
ーーー
「春は嫌いだな」
口ではそう言う洋子だったが、私の目には随分と春を満喫しているように見えた。服装も髪の色も纏った香水も、とても春を嫌いだという人間のものではなかった。
「どうして?」
「みんな消えちゃうじゃない」
「ああ」
彼女は指でつまんだストローでグラスに入った氷をからからと鳴らした。
「私の彼氏も消えちゃったの」
「そうなんだ」
相槌を打つ私には、さほど大きな驚きはなかった。彼女の恋人とは一度だけ会った。春のような男性だった。柔らかな笑顔に穏やかな態度、そして寂しさを隠した目元を携えていたのでよく覚えていた。
「寂しいと消えちゃうって本当なのかな」
「よくわからないけど……」
はっきりとしない私の言葉は、彼女の元まで届かず彼女が回すグラスの中でからからと音を立てて溶けていった。
「でもハコちゃんが消えてないからきっと嘘だよね」
「え?」
「あ、ごめん。でもハコちゃんって何だかいつも寂しそうだもん。ちょっと目を離したらいなくなっちゃいそう。私、ハコちゃんが消えちゃったら寂しいよ」
「……ありがとう」
彼女に寂しいと言われたのは素直に嬉しかった。けれど少し遠い気がする。自分の中から出てきた感情でも感謝の言葉でもないように感じてしまう。私とそっくりな誰かが、私の中でその場に相応しい感情や言葉を用意しているだけのような感覚があった。
私はそれを洋子に伝えるべきだと思った。
しかしどうしても言葉にならなかった。私の中にいる誰かが拒んでいた。
その場しのぎを是とする誰かが、私の中で薄く笑っていたような気がした。
「でもね」
彼女はストローを回すのを止めると、元から閑散としていた店内がより静かになった。
「彼氏が消えちゃったのもやっぱり寂しいかな」
確信があった。もしも噂が本当ならば、近い内彼女は消えてしまうと。
彼女の笑い方には寂しさが隠されていた。
ーーー
あの日から洋子は私に毎日連絡をくれるようになった。ハコちゃんが寂しくならないようにと言っていたが、彼女も自身が寂しくならないように努めていたのかもしれない。その甲斐もなく彼女は消えてしまった。
リビングではつけたままのテレビが相変わらず同じニュースを延々と繰り返していた。俎上に載っているのは一ヶ月前に洋子と話していた噂についてだった。噂が噂ではないと分かると、皆寂しくならないように振る舞い始めた。旧友と連絡を取り合ったり、恋人を作り出したり、週末を家族と過ごすようになった。そしてそれらをした人はことごとく消えていった。一人でいる時よりも、誰かと、一緒の時のほうがずっと寂しい。とにかく寂しさを感じないようにと動く人々は何だか滑稽だった。ここ数日は様々な専門家やらがしきりに「心に充足を、あたたかな生活を」と訴えていたけれど、誰も具体的なことは言わなかった。
誰も具体的なことは言えないのだ。
寂しいと人が消えてしまうなんて私は未だに信じられずにいる。
けれど実際に私の両親は消え、洋子とその彼氏も消えてしまった。
肉親を失い、数少ない友人も失くした私だけが一人、こうして消えずに残っている。
満ち足りた心があるわけでも、あたたかな生活を送っているわけでもない私は今日も消えずに一日を消化していく。
寂しいと人が消えてしまうのなら私は真っ先に消えてしまうはずだった。
洋子が言っていたように、私は自覚できるくらいには寂しさを抱えているし、それを隠すようなこともしてこなかった。
孤独だと確かに思っている。
何か切欠があったわけではない。ある時ふいに分かってしまったのだ。
人は孤独だと。そこから生まれた寂しさが今の私を形作っていた。
寂しさで人は消える。
ならどうして私は消えないのだろう。
陽が大分高く昇った頃、私は再びベランダの戸を開けた。
変わらずに春はそこできちんと待っていた。
水をあげたからか、花々は朝に見た時よりも随分と綺麗に咲いているようだった。
「葉子のおかげではあるけれど、葉子のおかげではないんだ」
手前にあったパンジーが喋り出した。
「水がなければ僕たちは綺麗に咲くことは出来ない。けれど水だけでも綺麗に咲くことは出来ないんだ」
紫色のパンジーはその模様が顔のようで昔からどうしても好きになれなかった。
「ねえ」
私はしゃがみこむとそのパンジーに声をかけた。
「あなたは寂しい?」
「寂しさって何だい?」
「あなたの隣にあったパンジーがいなくなった時、どう思った?」
紫色のパンジーの隣には、黄色に咲くはずだったパンジーがあった。
水の加減が分からず、私が腐らせてしまった。今は空になったその鉢の方に少しだけ視線を向ける。中に残った微かな土は水気を失い死んでいた。
「どうと言われても困るな」
紫色のパンジーは言う。
「いなくなったという事実以外、何も分からないさ。僕らは花であって葉子みたいに人間じゃない。葉子たちはそういう時にその寂しいっていうものを感じるのかい?」
「そうだよ」
春特有の質量のない風が私の髪と、花たちを揺らした。
「そうなんだよ」
鼻の奥がつんと痛むような感覚が生まれた。
「寂しいんだよ。私はちゃんと寂しさを感じてるの。独りぼっちだって、それはとても寂しいんだってちゃんと分かってるの。誰かと一緒にいたって結局独りなんだって。でもね、私は消えないの。人は寂しいと消えるんだよ。でも私は消えないの。それもすごく寂しいの。取り残されてるみたいで。でも私は消えないの」
どうしてだろう。
最後の言葉は音にならず、春の空気に滲んでいった。
紫色のパンジーはすぐには答えなかった。
私は鼻の奥に感じるものが、瞳の方へ伝わらないようにぐっと堪えた。
「ねえ葉子」
紫色のパンジーは言う。
「その寂しいっていうのは皆同じなのかい?」
「……え?」
「僕ら花は事実しかわからないんだ。葉子たちには心がある。寂しいというのはその心から生まれるものなんだろう? たった三文字だけど、それは皆同じなのかい?」
「違う、と思う」
「なら葉子の寂しいは消える類ではない寂しいなんだよ」
世界は春に包まれていた。
水彩画のような薄い青は空として頭上に広がり、見下ろす街並みは薄い膜を透かしたようにぼんやりとしていた。
先ほどまで鼻の奥に感じていたものはなくなっていた。
喉の真下辺りから暖かさが生まれていた。
春特有の風を、春の風としてきちんと受け止められている。高く昇った陽から降り注ぐ暖かさが私と花たちを祝っていた。
「消えるのかい?」
紫色のパンジーは尋ねる。
「うん」
それに私は答える。
指先の輪郭がぼやけ、その向こうに紫色のパンジーが見える。
「葉子が消えるのなら僕たちは枯れてしまうね」
「ごめんね」
「謝ることじゃないさ。事実としてそうというだけだよ」
ああ、でも。とパンジーは続けた。
「葉子が水をくれに来ないというのは、もしかしたら寂しいということなのかな?」
「どうだろうね」
私は立ち上がった。
「寂しいは皆同じじゃないから」
消えるまでにどれくらい時間があるのかは分からない。
それでも変わらず今までどおりに生活をしようと思った。
ベランダの戸を閉めると、リビングでも春が待っていた。
ー了ー
◇
い~のさん、ありがとうございました。
それでは次回もお楽しみに!
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