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【三島事件の研究本を研究する】③

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【三島事件の研究本を研究する・その③『三島由紀夫 憂悶の祖国防衛賦』山本舜勝】

『三島由紀夫 憂悶の祖国防衛賦』山本舜勝

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① 分類:(ア)・(イ)・’(ウ)・(エ)・(オ)
 (分類の詳細は下記をご参照ください)

② 『三島由紀夫 憂悶の祖国防衛賦』日本文芸社・1980/山本舜勝

③ 概要:昭和42年頃から、現職の自衛隊幹部として「楯の会」の指導にあたった山本舜勝氏による回顧録。
【帯文】〈情報将校に託した祖国防衛への「建白書」 自刃から10年-三島由紀夫氏が命を賭けて訴えた祖国防衛への警告は、間接侵略の脅威となりつつ、現実の防衛問題として沸騰している。”行動の河”の生き証人が、三島氏の心の憂悶を、日本人の魂に呼びかけ、民防の真姿を問い直すー注目の書!』

④ ポイント:山本舜勝氏は大正8年生まれ、昭和14年陸士卒業、大戦中は主に戦車部隊に所属し中国各地を転戦、昭和19年に陸大卒業後参謀本部付けとなり陸軍中野学校研究員兼教官。(終戦時の階級は少佐)。昭和27年警察予備隊に入隊、保安隊を経て陸上自衛隊では主に調査隊(主として対情報活動を行い出動部隊の行動を支援する事を任務とする)にて勤務した経歴を持つ方です。
 主に昭和42年頃から、偶然目にした週刊誌の記事から三島の”想い”に興味をもち、やがて運命的ともいえる三島との出会いを経て、「楯の会」と深く関わることとなった一連の経緯が書かれています。
 本書は、三島と自衛隊の”パイプ役”として、その一連の行動を間近で見ていた山本氏の証言集であり、三島事件にいたる迄の自衛隊側の”想い”を推察するための重要な資料であり、その後、日本共産党の機関紙『赤旗』によって世間の耳目を集めることになり、平成15年に廃止となった「陸上自衛隊調査隊」(後継的な組織として自衛隊情報保全隊」が編成されたの備忘録でもあります。

⑤私感:本書によれば、山本氏が三島(その思想を含め)に関心を持ったのは昭和42年の春頃でした。(ちょうどこの頃、後に「楯の会」初代学生長となる持丸博氏が三島のもとを訪ね、以降の交友が始まっています)氏によれば”ある週刊誌”に載った三島の記事だったといいます(注1)。はじめどちらかといえばネガティブな印象を持ちつつこの記事を読んだ山本氏でしたが、文中の三島の天皇観に興味をもったようです。「私は、これを機会に、あらためて天皇の問題を考えねばならぬ、と思った」という山本氏はこれ以降の三島の(主にエッセイ)言動に注視するようになります。そして迎えたこの年の暮れ、調査学校の同僚H一佐から、『祖国防衛隊はなぜ必要か』というタイトルのタイプ印刷製のパンフレットを見せられたるのですが、この冊子の著者こそ、自衛隊への体験入隊を終えた三島由紀夫でした。実は三島は予てから自衛隊への体験入隊を希望していたものの、一度は拒否されています。あきらめない三島は自衛隊OBの藤原岩市氏(注2)に防衛庁・自衛隊の仲立ちを依頼し目的を果たすのですが、この藤原氏の調査学校時代の部下が件のH一佐でした。こうしてH一佐経由で藤原氏を紹介された山本氏は、さらに三島とも親交を持つこととなります。この年の暮れも押し詰まった頃、赤坂の割烹料理店での酒席で「文士なら書くことに専念すべきではないのか」と問うた山本氏に対し、三島は「もう、書くことは捨てた」と言い放ちます。こうして始まった山本氏と三島との関係は、後の「楯の会」の編成から自衛隊での訓練、更には自衛隊施設から離れての都市ゲリラ訓練などの指導を経て深まっていきます。当初の”一般的な正規兵”的訓練は徐々に後方インフラ破壊などの”コマンド兵”的なものに変わってゆく中で、山本氏は三島のクーデター計画に深く関わってゆく事となるのですが……。

三島がその人生の最後の日々を刻んだ1960年代後半、ともすれば時代のうねりを作り出していたのは、中国に於ける文化大革命や、主にベトナム戦争に焦点を合わせた世界的な反戦運動に代表される左翼的活動のものでした。そんな中、あくまでも自身の最も信ずる思想を具現化すべく時代を奔走した、三島の姿を自衛隊側から捉えた記録として本書は第一級の資料となっています。
(注1)『サンデー毎日』6月11日号「自衛隊を体験する」および「三島帰郷兵に26の質問(インタビュア徳岡孝夫記者)『決定版 三島由紀夫全集34』などに収録
(注2)元帝国陸軍軍人(終戦時陸軍中佐)中国大陸にて歩兵将校として転戦した後、昭和14年に参謀本部第8課(謀略・宣伝を担当)所属となる。昭和16年に英領インドの対英独立工作を企図したF機関長となり、チャンドラ・ボースが率いたインド国民軍の編成などに携わった。戦後のインド独立に大きな役割を果たした事から「インド独立の母」と呼ばれたともいう。昭和30年陸上自衛隊に入隊し、自ら希望して調査学校校長の職に就いたという。退官(最終階級は陸将)した後、昭和46年に実施された第9回参議院選挙に自民党から出馬するも落選した。本書では”三島と藤原岩市の交友が始まったのは、田中清玄の紹介によるもの”と書かれている。

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昭和45年11月25日のあの日、東京市ヶ谷台の地で「三島事件」が起きてから半世紀が経ちました。
それでもなお、この事件に関して様々な角度での”研究”が行われ、その成果としての書籍などが世に出されています。

そこで、わたしが実際に触れる機会を得た中から、”付箋を貼っておこう”と思った内容のあった書籍などを取りあげ、このnoteに記事としてアップしていくとにしました。

いわゆる”書評”ではなく、”この本に、こんなことが書かれていますよ”という感じのnotesです。

今もなお、幾つもの解明されない謎は残され、真相は深淵のなかにあります。
そんな「三島事件」に興味を持つ人、これから興味を持つかも知れない方の参考になれば幸いです。
   
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① 分類(下記の5つのカテゴリー)
 (ア)「三島事件」に至るまでの三島由紀夫の軌跡に触れたもの
 (イ)「三島事件」と楯の会について触れたもの
 (ウ)「三島事件」における自衛隊について触れたもの
 (エ)自衛隊・楯の会以外で、何らかの形で「三島事件」に関わった者について触れたもの
 (オ)”昭和41年頃から45年に至るまでの世情”などに触れたもの・その他
② タイトル/出版社/作者
③ 概要
④ ポイント
⑤ 私感

※予定では50冊程度を考えていますが、多少増えるかもしれません。

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《「三島事件」とは》
昭和45年(1970年)11月25日。当時、日本を代表する作家のひとりでもあった、三島由紀夫(本名:平岡公威)が、自身が組織した私兵集団「楯の会」のメンバー4名らと共に、当時市ヶ谷駐屯地に所在した東部方面総監部に乱入、自衛官に蜂起を促す演説を行ったのち、「楯の会」二代目学生長・森田必勝と共に自刃した事件を指す。

現在では三島の行動の目的を「憲法改正のため、自衛隊員にクーデターを呼びかる」とするものが主流だが、客観的な状況(本来であれば蜂起の主力になるはずの都心では唯一の実働部隊であり、当初の襲撃目標だった第32普通科連隊の主力が、富士地区で行われていた大規模な演習に参加するために不在になることを事前に把握していた)やその後の関係者らの証言から、そもそも自衛隊員が実際に”決起”を起こすことを期待してはいなかったとする考えもある。

また行動を起こす日を11月25日と早い段階(昭和45年夏頃)に決め、本来であれば重要視すべき上記の状況などを無視し、決起に至った事情などは、本事件の裁判でも取り上げられることはなかった。
”大正10年、大正天皇の疾患を理由として裕仁親王が摂政に就任した日”とする説などがあるが、決定的な資料や証言は(現在のところ)無い。

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