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【三島事件の研究本を研究する】⑤
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【三島事件の研究本を研究する・その⑤『日米秘密情報機関』平城弘通】
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① 分類:(ア)・(イ)・’(ウ)・(エ)・(オ)
(分類の詳細は下記をご参照ください)
② 『日米秘密情報機関 「影の軍隊」ムサシ機関長の告白』講談社・2010/平城弘通
③ 概要:元陸上自衛隊幕部第2部(別名:「ムサシ機関」)長、による、いわゆる”別班”に関する回顧録。
【帯文】〈「朝日新聞がスクープした戦後最強の情報部員の証言 「影の軍隊」は実在する!!〉
④ ポイント:著者の平城弘通氏は元帝国陸軍将校(陸士55期)。主に騎兵(機甲)将校として中国大陸を転戦、戦後(昭和26年)警察予備隊に入隊、保安隊時には既に情報調査部ソ連情報係に勤められた方で、前回と前々回にその著書を取りあげた山本舜勝氏とは、陸士の二年後輩となります。
本書の約半分は、旧軍や警察予備隊に始まる自衛隊の黎明期に於けるエピソードが書かれていますが、第8章の「ムサシ機関長」の辺りからは主に自衛隊の”情報部門”に関する貴重な記述が残されており、先に紹介した山本氏の著作の著作とは違った視点での、三島と自衛隊の関係性が見えてきます。
本書においては、三島と三島事件に直接触れた章は1章(34頁ほど)のみではあるものの、やや醒めた(あるいはより俯瞰で捉えた)元自衛隊情報将校による「三島事件」考察・評価となっており、「この事件を様々な視点で考えたい」と考えるかたには良い資料だと思います。
⑤私感:いわゆる「70年安保闘争」に関しては、体制側・反体制側双方から数多くの資料が世に出ています。警察サイドの状況に関しては、当時、警察中枢におられた佐々淳行氏の一連の著書などでも明らかになっていますが、本書では、首都の治安を預かる警視庁・警備部のカウンターパートでも在ったとされる自衛隊の情報部門(調査隊)との間に行われた協力関係の詳細が書かれていて、当時の自衛隊と警察がいかにハイレベルな関係密度を構築していたか窺い知ることが出来ます。
著者は、”自衛隊の治安出動”がもっとも現実味を帯びた昭和43年から44年の時期に、警視庁・警備部にとって自衛隊側のカウンターパートとなる部署の担当者であり、この間のいきさつを知る方だったこともあり、”三島由紀夫と自衛隊、自衛隊と警察との関わり”についての非常に興味深い記述があります。
※以下、何点か抜粋します。
ア)平城氏は昭和43年7月に東部方面隊二部長に着任。この頃さらに勢いが加速したいわゆる”70年安保闘争”に対応するため、自衛隊に対し治安出動が下令された場合に備えて、事前情報を警察情報にのみ頼るのでは無く、自衛隊も自ら情報取集を行う必要を考えた。
この件を、当時調査学校情報教育課長として学生(自衛官)に対する教育訓練を行っていた山本舜勝氏(一佐)に相談したところ、自衛官の要員に関するアドバイスの他に、”民間の、ある著名な有力者とその仲間に対する情報教育を行っているので、いずれ紹介する”旨の話があった。
この”有力者”が三島由紀夫だった。
イ)同年9月、「日大闘争」にて機動隊員に殉職者が出たことを受け、警察はそれまでの”防勢前進で暴徒を鎮圧”する警備方法より積極的な内容にシフトし、部隊および個人の装備を強化した。
直後に行われた警察(警視庁)と自衛隊の調整会議の席で、翌月に予定されていた大規模闘争(「10.21国際反戦デー闘争)にむけ、”警視庁は最終的に(警視庁所属の警察官のみで)最大21,000人を動員する計画である”事を自衛隊に伝える。
自衛隊側が”(自衛隊として)何か出来る事はないか?”という問いに対しては、”警視庁警察官だけでは足らなくなった時には他県警の応援を考えている。それでも足らないときには重要施設等の警戒警備任務をお願いするかもしれない”という回答を受ける。
エ)その後、警視庁の機動隊員らは自衛隊から対爆発物訓練や対C兵器(Chemical weapons)の訓練を受けた。
オ)警察は旧帝国陸軍の教官を招き、警察幹部に対して徹底的な戦略・戦術教育を実施すると共に、旧帝国陸軍における「作戦要務令」的な作戦行動の規範を作成していた。
カ)70年代安保闘争最大の山場となった昭和44年10月21日の「国際反戦統一行動」は、もっとも自衛隊が治安出動に近付いた日であり、(自衛隊側も)これに備えた。
キ)少なくとも平城氏は、”国外から小型船舶等で小銃・ロケット弾・爆弾等が国内の過激派等の手にわたり、内乱状態に落ちる状況”も想定し、その際は(自衛隊に対して)治安出動が発せられると考えていた。
また、「三島事件」に直接関係する内容としては以下のような所感を記しています。
ク)三島は山本一佐を過大評価していた。
ケ)あのような(警察がその人員だけで、左翼過激派を抑え込んでいた)内外情勢下では自衛隊が治安出動する大義が無かった。
※もっとも三島は自衛隊に治安出動が下令された機会にクーデターを行おうと考えてもいたのですが。
コ)山本一佐の教育は兵隊ごっこといわれても文句はいえないもの。情報活動の実務、技術は教えているが、情勢判断、大局観を教えていない。
サ)クーデター計画に関して警察力を無視している
また、この他にも
シ)三島事件後に、一部の幹部自衛官らの間に不穏な言動が続いたことも事実。
ス)交流のあった、若い幹部自衛官らとは、三島は事件の前に全然連絡ををとっていなかった。
セ)事件後、そうした分子を摘発し、幹部には情報教育を行い、部隊長も徹底して部下を教育して、考えを改めさせた。
全体を通した場合、正直、ある種のバイアスを感じる箇所も散見されるのですが、個人的に強く興味のあった「70年安保闘争」対応に関する司法関係者(主に警察)と自衛隊の関係、またそれらが「三島事件」でどのように変化したのか?……その辺りに関するものもあり、とても参考になりました。
筆者を始めとして、旧軍出身者も多かった当時の自衛隊幹部の思考として”大儀”がいかに重要だったのかと思い知らされました。
おそらくは、戦後、防衛大や初級幹部を受けた者であれば、当然のことと考えるであろう「命令の瑕疵」の部分より先に”大儀”の思考がある点も興味深く読ませていただきました。
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昭和45年11月25日のあの日、東京市ヶ谷台の地で「三島事件」が起きてから半世紀が経ちました。
それでもなお、この事件に関して様々な角度での”研究”が行われ、その成果としての書籍などが世に出されています。
そこで、わたしが実際に触れる機会を得た中から、”付箋を貼っておこう”と思った内容のあった書籍などを取りあげ、このnoteに記事としてアップしていくとにしました。
いわゆる”書評”ではなく、”この本に、こんなことが書かれていますよ”という感じのnotesです。
今もなお、幾つもの解明されない謎は残され、真相は深淵のなかにあります。
そんな「三島事件」に興味を持つ人、これから興味を持つかも知れない方の参考になれば幸いです。
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① 分類(下記の5つのカテゴリー)
(ア)「三島事件」に至るまでの三島由紀夫の軌跡に触れたもの
(イ)「三島事件」と楯の会について触れたもの
(ウ)「三島事件」における自衛隊について触れたもの
(エ)自衛隊・楯の会以外で、何らかの形で「三島事件」に関わった者について触れたもの
(オ)”昭和41年頃から45年に至るまでの世情”などに触れたもの・その他
② タイトル/出版社/作者
③ 概要
④ ポイント
⑤ 私感
※予定では50冊程度を考えていますが、多少増えるかもしれません。
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《「三島事件」とは》
昭和45年(1970年)11月25日。当時、日本を代表する作家のひとりでもあった、三島由紀夫(本名:平岡公威)が、自身が組織した私兵集団「楯の会」のメンバー4名らと共に、当時市ヶ谷駐屯地に所在した東部方面総監部に乱入、自衛官に蜂起を促す演説を行ったのち、「楯の会」二代目学生長・森田必勝と共に自刃した事件を指す。
現在では三島の行動の目的を「憲法改正のため、自衛隊員にクーデターを呼びかる」とするものが主流だが、客観的な状況(本来であれば蜂起の主力になるはずの都心では唯一の実働部隊であり、当初の襲撃目標だった第32普通科連隊の主力が、富士地区で行われていた大規模な演習に参加するために不在になることを事前に把握していた)やその後の関係者らの証言から、そもそも自衛隊員が実際に”決起”を起こすことを期待してはいなかったとする考えもある。
また行動を起こす日を11月25日と早い段階(昭和45年夏頃)に決め、本来であれば重要視すべき上記の状況などを無視し、決起に至った事情などは、本事件の裁判でも取り上げられることはなかった。
”大正10年、大正天皇の疾患を理由として裕仁親王が摂政に就任した日”とする説などがあるが、決定的な資料や証言は(現在のところ)無い。