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【三島事件の研究本を研究する】零

昭和45年11月25日のあの日、東京市ヶ谷台の地で「三島事件」が起きてから半世紀が経ちました。
それでもなお、この事件に関して様々な角度での”研究”が行われ、その成果としての書籍などが世に出されています。

そこで、わたしが実際に触れる機会を得た中から、”付箋を貼っておこう”と思った内容のあった書籍などを取りあげ、このnoteに記事としてアップしていくとにしました。

いわゆる”書評”ではなく、”この本に、こんなことが書かれていますよ”という感じのnotesです。

今もなお、幾つもの解明されない謎は残され、真相は深淵のなかにあります。
そんな「三島事件」に興味を持つ人、これから興味を持つかも知れない方の参考になれば幸いです。
   
         ◇   ◇   ◇   ◇

各書籍などは以下の内容で紹介する予定です

① 分類(下記の5つのカテゴリー)
 (ア)「三島事件」に至るまでの三島由紀夫の軌跡に触れたもの
 (イ)「三島事件」と楯の会について触れたもの
 (ウ)「三島事件」における自衛隊について触れたもの
 (エ)自衛隊・楯の会以外で、何らかの形で「三島事件」に関わった者について触れたもの
 (オ)”昭和41年頃から45年に至るまでの世情”などに触れたもの・その他
② タイトル/出版社/作者
③ 概要
④ ポイント
⑤ 私感

※予定では50冊程度を考えていますが、多少増えるかもしれません。

         ◇   ◇   ◇   ◇

《「三島事件」とは》
昭和45年(1970年)11月25日。当時、日本を代表する作家のひとりでもあった、三島由紀夫(本名:平岡公威)が、自身が組織した私兵集団「楯の会」のメンバー4名らと共に、当時市ヶ谷駐屯地に所在した東部方面総監部に乱入、自衛官に蜂起を促す演説を行ったのち、「楯の会」二代目学生長・森田必勝と共に自刃した事件を指す。

現在では三島の行動の目的を「憲法改正のため、自衛隊員にクーデターを呼びかる」とするものが主流だが、客観的な状況(本来であれば蜂起の主力になるはずの都心では唯一の実働部隊であり、当初の襲撃目標だった第32普通科連隊の主力が、富士地区で行われていた大規模な演習に参加するために不在になることを事前に把握していた)やその後の関係者らの証言から、そもそも自衛隊員が実際に”決起”を起こすことを期待してはいなかったとする考えもある。

また行動を起こす日を11月25日と早い段階(昭和45年夏頃)に決め、本来であれば重要視すべき上記の状況などを無視し、決起に至った事情などは、本事件の裁判でも取り上げられることはなかった。
”大正10年、大正天皇の疾患を理由として裕仁親王が摂政に就任した日”とする説などがあるが、決定的な資料や証言は(現在のところ)無い。

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【三島事件の研究本を研究する・その零(0)『蘭陵王』】
《”三島の最後の四年間”をエッセイで追う一冊》

『蘭陵王』(新潮社1971年刊行版)

○ この連載記事では、基本的に三島由紀夫氏自身で書かれた書籍以外の物を取りあげることを趣旨としていますが、今回はこの『蘭陵王』(新潮社1971年刊行版)を取り上げます。

本の出版は、事件からおおよそ半年が過ぎた翌年の5月。
4月に行われた「三島事件裁判」第2回目公判で、”当初は弾薬庫を占拠し武器を確保した後に、隊員に蜂起を促し、国会の占拠と憲法改正の決議を行わせる”などの計画が検察側から明らかにされ、あらためて事件が世の注目を集め、事件の直後から大量に世に吐き出された”三島研究本”ブームに一段と拍車のかかった頃でした。

この「まえがき」も「あとがきも」無く、三島の最後の四年間に於ける苦悶が滲み出たエッセイと短編小説のみが並べられたこの本は、いわゆる”三島研究”の本・雑誌とは一線を画した、(様々なかたちで三島に関わった)新潮社関係者による、万感の想いが込められた”追悼集”だったのだなぁ………と、読み返すたびに感じるのです。

① 分類:(ア)と(オ)

② 『蘭陵王』/新潮社・1971/三島由紀夫

③ 概要:昭和42年1月から決起に至る頃までに、主に新聞・雑誌等で発表されたエッセイに加えて、昭和44年『群像』11月号に掲載された短編『蘭陵王』(脱稿日は昭和44年8月30日)を収録。

④ ポイント:昭和42年1月1日、読売新聞に掲載された一文『年頭の迷い』から始まるこのエッセイ集には、事件に至る迄に書かれた87編の小文が集められています。
 帯文は”緊張に満ちた晩年の内面を余すところなく伝える!”

⑤ 私感:昭和41年の年末、この約四年後に三島由紀夫が市ヶ谷台の地で自刃に至るきっかけとも言える出来事がありました。
 三島氏は林房雄氏の紹介で、平泉澄門人で民族派雑誌『論争ジャーナル』の創刊を企画していた万代潔氏と面談します。
 この出会いは、やがて同誌で編集長となる中辻和彦氏、更には「楯の会」の初代学生長となる持丸博氏(早大生)へと繋がっていきます。

 このエッセイ集『蘭陵王』は、そんな状況で書かれた『年頭の迷い』(昭和42年元旦:読売新聞)から始まっています。
 この中で”武士か、しからずんば、英雄か”という二者択一に迫られているという心情を吐露した三島氏は、四年の月日を経て、この本の最後から10番目に掲載された『私の中の二十五年』(昭和45年7月:サンケイ新聞)の中で”私はほとんど「生きた」とは言えない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ”と言うまで自身を追い詰めて行きます。

 そしてこのエッセイが書かれた頃、様々な理由で三島氏の傍には持丸氏の姿も、中辻氏の姿も在りませんでした。

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