病室になる社会
2019年からつづく一種の狂気、もしくは燔祭。私はそれにたいして最初、熱狂していた。元来、カトリシズムを浴びせられて育ってきたこともあり、学校の卒業式のような高揚感も何もないただの感動のための芝居ごっこは大嫌いだったが、ミサのようなある種の怪しさにも似た団結感、統一感を生み出す「お祭り」はとても好きな質である。
思えば、この狂気は1995年、2011年などにも見られた現象であった。単なる自然現象や大量殺人にたまたま出会い、殺されたに過ぎない人々を過度に称賛し、その「大量殺人犯」を過度に恨む風潮。この根源にあるのは、一種の燔祭である。自分たちと無関係に全員一致の故意なき・過失なき殺人によって捧げられた供儀を火に投げ込むことで得られる陶酔。そのものに酔うという古代より続いてきた信仰の根源たる要素である。
ただ近代は自然権思想によって供儀を燔祭の火に投じることを禁じるから、代わりに外縁や偶発にそれを任せてきたにすぎない。近代の祖型である軍隊でしごきが絶えず、その最高傑作である絶滅収容所において「殺人」が常態化する。それは近代にとってごく自然なことなのだ。「死ぬか生きるか」の前近代にたいして、近代は「生きるか死ぬか」を人々に投げかける。「生きる」を選んだ大衆によって、「死ぬ」ことや「死んだ」ことを強制された者たちは供儀として燔祭の火に投げ込まれるのである。
この形態をルネ・ジラールは欲望と呼び、フーコーは知と呼んだ。別に私はホロコーストや文化大革命のことを言っているのではない。そのような一種の写像を指してはいない。近代のすべてに遍くすべてにこのような燔祭が遍在している。それはいじめ、リンチ、風俗産業、枕営業などさまざまな写像を取るに過ぎない。それは普遍であり、関係の根源なのである。私はその極致の一つである父と子と聖霊、そしてカトリシズムを浴びて暮らしてきたから、そういうのにちょっとばかし敏感になっているに過ぎない。
新型コロナウィルスはそれを劇的に変質させた。アガンベンの例外状態でもなく、レヴィナスの顔でもイリヤでもない。もっともっと劇的な変貌が新型コロナウィルスとWWWによって加えられてしまった。それは燔祭から高揚感が取り除かれ、供儀から供物が取り除かれ、リアルからアクチュアルが取り除かれてしまったのである。肉を世界は失ってしまった。
まず、第一に燔祭の話をする。人間の関係の本質とは、燔祭である。関係ない何かを供物として神聖なる火に捧げ、一種の連帯感を獲得する。その際に重要なのは儀式ではない。場全体に広がる高揚感である。しかし、新型コロナの流行には何ら高揚感も危機感もない。1年前にはそれはあったが、それも取り除かれてしまった。世界は今、高揚感も団結もないのに、ただただだらだらと生かされるために供儀が捧げられる。そのような社会を生きている。エッセンシャルワーカーとやらを筆頭にして、この1年間そのもので私たちはそれだけの何かを失ってきた!!その代償としてあるのは、ただだらだらとぶくぶくと膨れた肥満女性の醜い脂肪のような日常だけである。今や近代が問いかける言葉は「生きるか死ぬか」ではなく、「生きるかもっと生きるか」に変わってしまった。
次に供儀である。供儀には、神官と供物、そして供え人が必要である。近代の発明は神官を自然権なる消失点に置き、供物を捨象してもようい何かとし、代償なく供儀を実行することを可能にした点にあった。だからこそ、フランス革命では貴族を何も罪悪感なく殺し、ナチスは劣等人種に何も罪悪感を頂くこともなく財産を略奪することができた。これは近代の一つの本質なのである。しかし、その供儀に変質が発生している。謂わば供物と供え人の同一化が起きている。権力の目的が大勢を生かすことからすべてを生かすことに転換してしまったために、供物が消失してしまった。結果として、供え人の一部がそのまま供物に転化してしまったのである。
最後に両者の結実として、リアルからアクチュアルが取り除かれた。人間が現実と向き合う際に、そこに彩色を与えてくれるのは数々の刺激である。人々は日々語らい、危険を冒し、楽しむことで現実を見出すのである。今の社会にあるのはただの灰色の日常である。自己の生存にとって不必要と判断されたものを捨て去り、味気ない日々をただ生かされる日常。「終わりなき日常を生きろ」などと宮台真司が喚いていたが、私たちが今生きているのは終わりなき自殺とも生存ともいえない何かである。
このような状況とよく似たものがある。それは植物人間や終末期の患者である。すべての楽しみを剥奪され、危険もすべて遠ざけられ、計算されつくされた安全のなかで生かされるだけの肉。それが今の社会である。全世界が一つの病室として、すべてのリスクが計算され尽くした地獄のような環境で生きている。
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