小ホラ 第22話
シロ
飼い猫のシロがまったく帰ってこなくなった。
桜の咲く季節になると雌の尻を追っかけて姿が見えなくなることは当然のこととなっていたが、それでも腹が減ると帰ってきて裏庭の沓脱石の上で餌をせがんだ。
猫好きの人に拾われて飼われているのではないか、それならそれでいいじゃないかと猫アレルギーを持つ妻は笑う。だが、道に飛び出しでもして、車に撥ねられて死んでいたならあまりに可哀想だ。いくら自由にさせていたとはいえ、ちゃんとしつけていればそんなことにならないのに。
きょうも起床してすぐ、縁側から裏庭に出て帰ってきた形跡がないか確かめた。
やはり帰っていない。
洗濯干場にしている裏庭には自分の趣味で作った小さな花壇がある。すぐ飽きてしまって今は雑草まみれになっているが、そこに足を踏み入れ、腰の高さの境界塀の向こうへと目を凝らした。
ブロックで設えた塀の横には田んぼが広がっていて、すぐ真下にはコンクリート製の細い用水路が田んぼを囲んで巡らされている。
シロは畔道を通り、用水路を跳び越えて庭に戻ってくるのだが、今もその姿は見えない。
いったいどこに行ってしまったのか――最悪の場合はどうしても考えたくない。
あきらめきれず、塀から身を乗り出し辺りを見回した。
田んぼは丹念に耕され、濃厚な土のにおいが漂っている。
田植えが始まれば、普段は底を濡らすだけの用水路に小川から引かれてきた水がとうとうと流れ出す。
夏が来る頃までシロの姿を見なければ、もうあきらめねばならない――
がっくり項垂れると、じめじめした用水路の底に何かあることに気づいた。
香箱座りする猫ほどの大きさと形状なので一瞬シロなのではとどきっとしたが、ぬらぬら濡れたそれは真っ黒いので、そうではないと胸を撫で下ろす。
豪雨が降り続いたあくる日など、よくこのぐらいの大きさの石が雨水とともに転がり込んでくることはあるが、ここ数日、そんな雨は降ってはいないし、石にしては質感がおかしい。
やっぱりシロではないか――用水路を跳び損ね、打ち所が悪くて死んだのではないか――黒いのは腐敗して変色しているからではないか――
そんなことまで思い巡らせたが腐敗臭はないし、それにシロはそこまでドジではない。
だったらこれはいったいなんなのだろう。
花壇に刺し込んでいた長い緑色の支柱棒を一本引き抜き、腕を伸ばして黒いものを擦ったり軽く突いたりしてみた。
柔らかい感触が棒先から伝わってきたが、猫など動物の毛や皮膚感ではなく、直接触れたわけではないので何とも言えないが、例えるなら蛙の感触に一番近い。
だが、蟇蛙にしては大きすぎるし、真っ黒すぎるし、手足もない。
よしっ、確かめてみるか。
塀を乗り越えて狭い用水路に下りた。
真っ黒いものに右手を伸ばす。
その瞬間、かぱっと口を開けてそれが飛び掛かってきた。とっさに避けたが小指の付け根あたりに喰らいつかれた。焼けるように痛く、思わず手を振り回したが離れない。左手でつかみ外そうとしたその時、目の端に白いものが走った。
シロだ。
用水路の壁塀に飛び乗ったシロは私の手にぶら下がる黒い何かに素早く猫パンチを繰り出した。
ばふっと粒子になって、そいつは霧散した。
「あ、ありがとうな――シロ」
じんわりと痛む右手を擦りながら礼を言うと、シロは何事もなかったかのように塀を跳び越え、裏庭を横切り、沓脱石の上で餌をねだるようにみゃあと鳴いた。
それから数か月が経った。
シロは相変わらずふらふらどこかに出かけ帰ってきたり来なかったりする。
あの禍々しいものはいったい何だったのか、今でも正体はわからないが、私の右手とシロの右前足には黒い染みが残ったままだ。