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小ホラ 第12話

監禁


 黴臭いにおいに万衣子の意識が目覚めた。

 先日布団を干したばかりなのに、こんなにおいを放つものがまだ部屋のどこかにあるの?

 目を開けずに鼻だけをくんくん働かせ、においの元が自分の被っている毛布だとわかった瞬間、「やだっ」と万衣子は勢いよく上半身を起こした。

 とたんにくらくらと眩暈がして頭を押さえたが、手入れしているはずの寝具から放たれるにおいが信じられなくて、薄明かりの中で確認を急いだ。

 果たして毛布は自分のものではなかった。洗いたてのパッドを敷いた敷布団もない。そもそも自分のベッドではなく、砂埃まみれの床に直接置いた汚いマットレスの上に寝ていた。
 自室でないのももちろんのこと、なにより違うのは動物のようにおりに入れられていることだった。膝立ちがやっとの高さしかなく、広さもセミダブル大のこのマットレスの幅しかない。

 事の重大さを知ってもしばらくぼんやりしていた万衣子だったが、だんだんと意識がはっきりし、自分の身に起きたことを思い出してきた。

 そうだ。昨夜帰り道で誰かに襲われたんだ――

 徒歩で帰路についていた万衣子は背後から何かを嗅がされて気を失い、車で運ばれている途中で目覚め、もがき暴れたことも思い出した。
 だが、車を止めた男に再び何かを嗅がされ、顔を確かめる間もなく再び意識を失ってからの記憶がまるでない。

 毛布から這い出た万衣子は身形みなりを確かめた。衣服を脱がされた形跡はなく、拉致られた時のままだったのでちょっとほっとした。
 鉄格子を前に、無駄だと思いつつ引っ張ってみる。 
 人の力では到底、いや熊の力でもびくともしない頑丈さだ。扉には鎖が何重にも巻かれ、大きな南京錠ががっちりとかかっている。

 見廻してもバッグなどの私物はなく、マットの隅に置かれた蓋つきのバケツとトイレットペーパーに気づいて万衣子はぞっとした。

 内部が薄明るいのは檻の向こうに見える板壁の隙間から柔らかい光が差し込んでいたからだ。
 納屋か山小屋か、十畳ほどの広さで、荒み具合から打ち捨てられて長い場所だとわかった。もちろんキッチンや風呂場、エアコンにテレビなどの家電もない。
 天井や壁には照明器具もなく、頼りの光源は隙間からの光だけだと知ったが、今が夜明けなのか日暮れなのかはわからない。

 もしこれから夜が始まるのなら――と万衣子は鼻先もわからない暗闇を想像して身震いした。

 薄汚いマットの上で毛布を巻き付けて身を縮める。黴臭さなど気にしている場合ではなかった。

 いったい誰に拉致られ監禁されたのか、まったく心当たりはない。
 たまたま自分が選ばれたのか、それとも知らない間にずっと狙われていたのか。
 悔しくて歯噛みしながら、相手がどんな奴でも決して屈しないと万衣子は心に誓った。

 

 毛布に包まったまま居眠りをしていた万衣子は眩しさで目が覚めた。
 板壁の隙間から入る光に力強さが増している。
 長く眠った感覚がなかったので、さっきは夜明けの光だったのだと思った。

 小屋の中はさっきよりもはるかに明るかったが、隙間からの光だけでは小屋の四隅を照らすには足りていない。

 不気味な何かがうずくまっているような暗闇に、やがて来る夜を思って万衣子は震えた。

 だが、とにかく今は明るい。まだ大丈夫だ。

 脱出の方法を見つけるため、もしかして緩んだ鉄格子があるかもしれないと、万衣子は一本ずつ引っ張って確かめた。
 無理だとわかると、周囲に何か落ちていないか、例えば南京錠を開錠できるような針金のようなものがないかと目を凝らして探し出そうとした。
 こんなぼろぼろの小屋なのだ、針金や釘が必ず落ちているに違いない。

「ふっ」
 鼻息のような、思わず漏れてしまった嗤いのような小さな音がして、万衣子はそれが聞こえた片隅の陰に目を向けた。
 そして、本当に何かがうずくまっていることに気付き、心臓が止まるほど驚いた。

「やあ」

 光の当たる場所に出てきたのは神経質そうな男だった。男の顔に覚えはなかったが、会社でよく見かける女を見下す男たちと同じ目つきをしている。

 男がうすら笑いを浮かべた。

「何が『やあ』よっ、今すぐここから出しなさいっ」

 激昂する万衣子に男が声を上げて笑う。

「威勢がいいなあ。そういう女好きだよ」

 背筋に怖気を這わせながらも怒りを込めて万衣子は男を睨みつけ、「だれかぁぁぁぁっ、助けてぇぇぇっ」と声の限りに叫んだ。

「無駄だよ。ここは山奥だ。僕の所有だから入山するものは誰一人いない」

 落ち着き払う男がしゃくに触り、万衣子は咆哮を上げながら鉄格子を握りしめ揺さぶった。だが、どうなるものでもなく、手を痛めただけだ。

「ははは、ほんと威勢がいいなあ。でもいつまで続くかな」

 男は紙袋を掲げて見せ、
「お腹が空いただろう? ここにサンドイッチが入ってるんだ。もちろん飲み物も入ってるよ。欲しかったら、目の前の鉄格子を舐め上げてよ。アレをするみたいにさ。わかるだろ?」

「はあ?」
 薄汚い要求に万衣子はさらに憎々し気に顔を歪め、男を睨みつけた。

「何度も言わせるなよ。なんなら真っ裸で猫ポーズでもいいよ。尻を高く上げてさ」

「このっクソ変態野郎っ」
 万衣子は男めがけて唾を吐いた。

「いやなら別にいいよ。僕はちっとも困らないから」
 男は紙袋を床に落とすと音を立てて踏みつけにじった。
 破れた袋から潰れたサンドイッチとコーヒーが滲み出てきた。香ばしい匂いが万衣子の鼻まで漂ってくる。

 抗えず、ぐうっと腹は鳴ったが、生唾を飲み込むことには耐えた。

「じゃあね。明日また来るよ。それまで決心しとくんだね」
 男はそう言いながらも動こうとはせず、万衣子の表情を窺っている。

 泣いて許しを請うとでも? ふんっ、そうはいくか。

 万衣子は空腹と恐怖に耐え、唇を噛み締めて男を睨み続けていた。

 

 男が出て行ってから何時間たったのだろう。

 真の闇というものを始めて感じながら万衣子は毛布にくるまっていた。月明かりでもあれば少しは違うのだろうが、あいにく外は雨が降っている。屋根や壁を打ち付ける雨音だけでなく雨漏りしているのか内からもぼたぼたと音がしていた。
 檻の中に滴が落ちてこないだけマシだと万衣子は考えることにした。

 薄ら寒さに体を冷やしたのか、激しい便意を我慢できず、さっきバケツに排泄した。屈辱に耐えてはいるが、涙が溢れてくるのは止められない。

 あいつ、絶対に許さない。

 蓋をしても漂ってくる自分の排泄物の臭いとひもじさの中で万衣子は眠りに落ちていった――

 何かの物音で目が覚めた。耳を澄ますと小屋の外で鳥が鳴いている。まだ日は昇っていなかったが、壁の隙間から深海のような青さが見えた。

 夜が明けたとほっとしたと同時に何度目かの便意をもよおし、万衣子は腰を折ってバケツにまたがった。少ししか出ないが、腹具合が悪くて必ず波が来る。

 その時、部屋の隅からカチッと音が聞こえ丸い光が灯り、スポットライトのように万衣子を照らした。眩しさに目を細め、急いで立ち上がろうとしたが止めることができない。

 光が揺れ動くと同時に拍手が聞こえた。

「ああ、素晴らしい。君のそんな姿を拝めるのはきっと世界で僕ただ一人だ」

 男が昨日よりも大きな紙袋を持って檻の前まで出て来た。

 万衣子は腹が治まると急いで下着を上げ、頭から毛布に包まって寝転んだ。これ以上自分の姿をこの男に晒すのは嫌だった。

「おにぎりとお茶を持ってきたよ。ウエットティッシュや下着の替えも袋に入ってる。欲しいだろ」

 確かに喉から手が出るほど欲しかった。だが、万衣子は毛布の合わせ目をきつく閉じて返事もしなかった。

「残念だな。じゃこれは持って帰るよ。きょうから仕事が忙しくてね、あさっての朝まで来れない。死なれると困るから食べ物だけ置いてくよ」

 ガサゴソと音がして、毛布の腰あたりにぽんと何かが載った。

 隙間を開けて覗くとコンビニのおにぎりだった。そっと男に視線を向けるとにやにやといやらしく笑う目とぶつかった。

 かっとなった万衣子はおにぎりをつかむと男に向けて放り投げた。

 うまく鉄格子をすり抜けたおにぎりは、だが男に当たることなく、汚れた床を転がっていく。

 包装されているので食べられるが、万衣子の手の届かないところまで転がってしまった。

 取って欲しいと喉まで出かかったが、どんな変態じみた行為を要求されるかわからない。投げたことを後悔しながら万衣子は毛布を閉じた。

 拾い戻してくれることを願ったが、男は癇に障る大笑いをするだけで拾ってくれず、ペットボトルのお茶だけ檻の中に置いて、そのまま小屋を出て行ってしまった。

 

 万衣子は泣いていた。
 自分から放たれる汚れた髪の臭いや体臭に――
 バケツから漏れてくる臭いに――
 今までに味わったことのないひどい空腹に――
 そして物音がする度に男が来たのではないか、陰に潜んでいるのではないかと期待している自分に――
 男に抗えなくなってきている自分が情けなくて泣いた。

 あと何時間したらあの男はここへ戻ってくるのだろう。
 ちゃんと食料を持ってくるのか。それを欲したらどんな条件を出されるのか。

 万衣子はすんと鼻をすすって顔を上げた。

 もうなんでもいいわ。なんだってする。
 鉄格子を舐めろと言われたら舐めるし、裸で踊れと言われたら踊るわ。何か食べさせてくれるのなら――
 そうだ。本当の従順になんてならなくたっていい。ふりだけして油断させれば、ここから逃げることができるかもしれないじゃない。

 もうあの男に勝った気がして万衣子は高笑いした――つもりだったが、大きな口を開けただけで声は出なかった。

 

                 

 

 そろそろ落ちる頃だな。

 コンビニの棚からサンドイッチを選びながら男はほくそ笑んだ。仲良く一緒に食べようと自分の分もかごに入れる。サラダのパックにオレンジジュース、缶コーヒーも入れ、レジに並んだ。

 車にはこの前の清拭セットとともにスケスケのきわどいランジェリーも積んでいた。
 身体をきれいにした後、あれを着けて目の前で踊ってもらおうか。その後僕が脱がせていく。上からいくか、下からいくか、楽しみだなあ。
 ああそうだ。先にバケツの中身を始末しないとな。あんなひどい臭いの中じゃ楽しめないし。
 それにしてもあの彼女がどこまで従順になっているかだ――食べ物を餌にもっともっと屈辱的なことさせてやろう。

 笑いが込み上げてくるのを我慢しながら支払いを済ませ、男は妄想で夢見心地のまま店を出た。

 目の前の駐車場に一台のパトカーが止まり、警官が二人降りてきた。寄りにもよって自車の隣だ。

 突然のことに男は夢見心地から一瞬で現実に引き戻された。
 その表情の変化を警官たちは見逃さなかったらしい。二人で顔を見合わせてこっちに近づいて来る。

 男は焦りで平静を保てず、とっさに向きを変えて逃げ出した。

「おい、ちょっと待てっ」

 男はますますスピードを上げ、道路を横切った。
 周囲を見ている余裕などなかった。

「あぶないっ」

 警官の声に信号が赤だと気付いた時は遅かった。

 男はトラックに跳ね飛ばされ、頭から地面に叩きつけられた。


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