見えない次元

「努力」とか「がんばり」とかはやたらに奨励されて、良いものとされるしそれを求められるけれども、それを計るのは成果や数字という記録にあらわれるものしかないのがつらい。「維持すること」や「捨てること」の大変さは誰にも認められない。そして近年ではその「維持」、つまり日常をふつうに送ることやそこの内側で求められることのハードルや項目はかなり細かくしかも上がっていると思う。
ほんとうに行われている「がんばり」は可視化されない。いわば水面下でのアヒルの水かきのような、その可視化されないがんばりは切り捨てられるものでしかなく、しかしそこで切り捨てられた時間や人格の部分はけして戻らないものである。そのようにして社会は非人格化された「日常」や讃えられるべき「成果」のみを有形化するために吸い上げて、それを形作ってきたひとびとを隠し闇に葬る。ひとびとは自分が社会のどの部分にいるのかわからずに、消費の度合いによって自らを遡及的に自己言及的に配置することで、さらなる内省に陥る。閉塞的な時代。


でっっっけ〜〜〜アクスタがきたぜ。

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