その背中を追い続けてChapter2
僕は高校に入学して早々に色々と選択を誤ったと思った。
頭をひっぱたくなんてのは日常。
校則違反があると反省のために坊主頭にする、
ポケベルやPHSを持っているのがバレると解約させられるなどなど。
ほぼ鑑別所だ。
ものすごくバカバカしいことの連続で僕はしょっちゅうサボっていた。
その心の支えが布袋さんの音楽だった。
持っているCDをMDに落として片道1時間半の拷問みたいな満員電車を何とかごまかしたり将来に対する漠然とした不安を紛らわせていた。
そしてこの退屈で窮屈な日々を変えるためにギターを手にしたいと思うようになっていった。
が、しかしである。
エレキギター=不良という図式が成り立っている我が家では許可が出ず、
仕方なく僕は妥協してアコギを買うことにした。
が、しかしである。
僕は布袋さんのようにディストーションの効いたギターを「ギャーン!!」と鳴り響かせたくてウズウズしているのだからアコギを「ポロ~ン」と鳴らしても却って虚しくなってしまうのだった。
4畳半の狭い部屋でもエレキだったら武道館にいるような気分になれるんじゃないかと思っていたけどアコギだと神田川の世界である。
「スリル」が弾きたいのに手元にある教則本にはフォークソングばかり。
元来が飽きっぽい性格なのでギターがオブジェになるのは時間の問題だった。
今だからわかるけど当時の僕は何事も中途半端で責任逃ればかりするような性格だった。
「親のせい」「学校のせい」「社会のせい」
何でもかんでもそうやって周りのせいにして逃げ回っていた。
布袋さんの音楽も都合のよいところだけ切り取ったり解釈をしたりしてなんというか…イヤなガキだ。
結局、僕はのらりくらりと高校1年生をなんとか終えた。
そして僕にちょっとした災難が降りかかる。
高校2年の最初の授業。
僕は休み時間にちょっと息苦しかったので学ランの第1ボタンを外して現代文の教科書をめくって小説を読んでいた。
そしてうっかり外したことを忘れたまま次の授業を受けたとき。
教師がツカツカと僕の目の前に来るや否や持っていた竹物差しでのどを一突きしてきた。
僕は訳が分からず「は?」みたいな顔をしたんだと思う。
その瞬間、二度目の突きがさく裂した。
要するに第1ボタンを付けろということだったんだけど言葉よりも先に物差しがすっ飛んでくる素晴らしい教育方針は僕には向いていない。
翌日、僕は自主的に卒業することにした。
その数週間後、布袋さんがリリースしたアルバムで僕は完全に布袋さんの虜となる。
「Super Sonic Generation」略してSSG。
打ち込みを前面に使ったギンギンのデジタルロックに「怒り」や「憤り」を満載したエッジの効いたリリック。
まさに今の僕を代弁しているような作品だった。
リリース前にライヴがブッキングされていたのでチケットを先に手に入れていたこともあって僕にとっては人生を変えた作品と呼べる。
【大人はいつでも偉そうな顔で恥ずかしげもなくウソつきまくってah善人気取りで説教するなら相手を選びな】
というリリックは僕の境遇を知っているのか?とまで思ったこともあって今もなお僕にとってアンセムとなっている(大人になった今は自戒も込めて)
僕もこんな風にギターとRockで食べていきたいと思い始めていた矢先、
もう一人の憧れていた人、hideが他界した。
音楽性の激しさは圧倒的にhideの方が強かったけれど優しさは布袋さんとはまた違う寄り添うような曲ばかりで僕の音楽性をずいぶん広げてくれた人だったのでかなりの衝撃だった。
その後の自殺説、薬物説など根も葉もないゴシップで怒りと悲しみが心の中を駆け回っていた。
ただその感情を受け止めてくれたのもSSGという作品だった。
両親は不登校を通り越してドロップアウトした僕にやきもきしていたけど当の僕はRockがあれば生きていけるような気になっていたので衝突することが増えてしまった。
親からすれば「ほれ見たことか、Rockを聞くからだ」と予言的中みたいなしたり顔をしていた。
一方で母親は自分自身にも問題があることに気づき始め、不登校向けのカウンセリングを見つけてきて一緒に通うことを提案してきたのでそれだけ承諾して僕は未来のために少し進んでみることにした。
そもそも僕は大学に進学して民俗学を専攻したいと思っていたので公式に高校を卒業しておく必要があり何か方法はないものかと思っていた時期でもあった。
そう思えたのも布袋さんの「Change Yourself」を聞いていたからで
すでに僕の人生の指針は布袋さんの音楽で形成され始めていたんだと思う。
それは信仰でもなければ妄信でもなく純粋な憧憬だった。
1998年6月。
hideを失った悲しみをまといつつ生まれて初めて武道館を訪れた。
この日のライヴで僕はとてつもない衝撃を受けることとなる。
続く