忍者、事務職はじめました Vol.1
私は今、とある会社で社会人として働きながら、独りで生活しています。
事務職なので、それほど給料が高いわけではないけれど、生活に困ることもありません。
社内での評判もよく、仕事自体にも満足しています。
プライベートでも、自分のやりたいことに挑戦し続けています。
むしろ、やりたいことが多すぎて困っているくらいです。
そんな私には、みんなへ内緒にしていることがあるんです。
実は私、忍者なんです。
独暇流忍術という流派の忍者なんです。
『どっかりゅう』と読みます。
独暇(どっか)の者と言えば私のことです。
今の会社で働く前に、独暇の里に住んでいて、独暇流忍術の修行をしていました。
独りで暇な時に、何らかのミッションを達成することが求められました。
辛く厳しい修行の末、私はついに、独りで暇な時に何らかのミッションを達成する術を身に着けました。
しかし、このまま、独暇の里に居続けることは、私のためになるんだろうか?
この忍者のスキルを、世の中の役に立てることはできないんだろうか?
そう思ったら止まらないのが私です。
師匠には、独暇流忍術『独暇総言所有(どっかそういうとこある)の術』で、私にどこかそういうところがあることを見破られました。
忍者であることが世の中に知られると、大変なパニックとなります。
絶対に忍者であることを知られないという条件を元に、私は独暇の里を出ることを決意しました。
独暇の里では、趣味でパソコンをやっていました。
師匠が、独暇流忍術を創設する前にやっていた職業が、パソコンインストラクターだったのです。
忍術の修行をしながら、パソコンを習っていたのです。
そこで私は、就職するならパソコンを使う仕事かな?という安易な考えで就職活動を始めました。
それまで社会人の経験がなかった私は、面接というものがよくわかっていませんでした。
面接官に言われるがままの条件で入社した最初の会社は、いわゆるブラック企業でした。
その時の記憶は、今は抹消されています。
思い出すと吐き気が止まらなくなるからです。
約3ヶ月間は耐えましたが、忍者のタフな精神もすり減るほど、ブラック企業というのは凄まじいところです。
今思えば、その時に初めて独暇の里以外で忍術を使ったような気がします。
「ドロン」てな具合に。
幸い、3ヶ月分の給料は支払われていたため、退職後に直ちに生活が困難になることはありませんでした。
独暇の里を出てから借りたアパートの家賃が安かったことも、今思えば助かりました。
このアパートは、都心部から非常に離れた地域にあるんです。
家から仕事場まで歩いて通うことで、少しでも修行につながればいいと思ったからなんです。
だから家賃が安いんです。
日当たりがよくない構造も、何となく忍んでいる感じで、私はお気に入りです。
ブラック企業をドロンした私は、次の仕事を探す前に、就職というものがどういうことなのかを調べることから始めました。
一般社会には、とても便利な施設があります。
「図書館」です。
無料で本が読み放題という、素晴らしいシステムを、私はこの時に初めて知りました。
図書館で本を読んだからこそ、ブラック企業というものも知ることができたのです。
面接に関する本を読んだ私は、愕然としたのを覚えています。
一般的な会社では、面接の時に「スーツ」を着て行くことが望ましいようなんです。
私が、最初の会社の面接を受けた時に着ていたのは、私の一張羅でもある忍び装束です。
忍者だと怪しまれないように頭巾はせずに行きましたが、この本を読む限りでは、十分に怪しかったようです。
それでも採用されたということは、それがブラック企業だったからなのでしょう。
ちなみに、図書館にも同じ格好で行ったことは言うまでもありません。
私は、すぐにスーツを求めて街へ繰り出しました。
スーツというものがどのようなものなのかは、本を読んで学習していましたが、スーツを売っている店がわかりません。
大きな店になら、きっと売っているに違いないと思い、独暇の里では見たこともないような、大きな店を発見しました。
今ではコツを掴みましたが、その時は、どうやってドアを開けるのかがわかりませんでした。
なぜなら、ドアに取っ手がついていなかったからです。
どうやって店内へ入るのか、他の人のやり方を真似ようと、観察をすることにしました。
すると不思議な事に、ドアに触れることもなく、他の人は店内へ入っていくではないですか。
仕組みがわかれば簡単です。
私も同じように、ドアに触れずに店内へ入ろうとしました。
しかし、透明なドアにぶつかるだけで、店内に入ることができません。
そこでプランBです。
誰かの後について店内へ入る作戦に切り替えました。
それが功を奏し、見事に店内へ入ることができたのです。
今思えば、私の中の忍者が出すぎていて、自動ドアが反応しなかったのです。
それもそのはずです、頭巾をかぶっていないとはいえ、忍び装束なのですから。
店内には、様々なものが置いてありました。
中でも食料品の数は、私が今まで見たこともないほどの量でした。
後から知りましたが、そこはスーパーマーケットと呼ばれる施設だったのです。
奇跡だったことは、格安のスーツが売られていたことです。
これも後から知ったことですが、その店のスーツは、格安スーツで有名だったのです。
図書館で読んだ本に書いてあったのは、黒っぽいスーツが良いということでした。
忍者である私にピッタリだなと思ったことは言うまでもありません。
スーツコーナーへ足を踏み入れるやいなや、店員さんが声をかけてきました。
「いらっしゃいませぇ~♪ どのようなものをお探しでしょうかぁ?」
「はい、実は、スーツを探していまして」
「あら、それはステキですね。たくさんご用意しておりますよ」
何という親切な人なのだと、その時は感動すら覚えました。
それが間違いだと知ったのは、今の会社で働き始めてからです。
しかし、その時の私は、その感動に冷静さを失い、必要のないものまで買わされていたのです。
黒いスーツ2着、Yシャツ7枚、ネクタイ10本、スーツケース1つ、その他諸々です。
黒いスーツの内1着は、喪服と呼ばれるものです。
冠婚葬祭で必要になるという親切なアドバイスから購入を決めたのです。
Yシャツは、スーツの中に着るもので、白いものを1週間分の7枚は持っていたほうがいいと言われ、購入しました。
ネクタイは、Yシャツの襟首に結ぶもので、Yシャツと同じく1週間分と、冠婚葬祭で使う白と黒、9という数字は縁起が良くないということで、もう1本を追加して購入することとなりました。
大量のスーツを保管したり運んだりするには、スーツケースが便利だということも教わりました。
私が如何に冷静さを失っていたのか、誰もがわかるでしょう。
そして、それこそが「図太い神経を持つ図々しいおばさん」という人種であるということも、後から知ることになるわけです。
こうして私は、社会人の必需品であるスーツを手に入れました。
スーツを手に入れた私は、その足で図書館へ戻ることにしました。
今思えば、頭巾を被っていない忍び装束の私が、大きなスーツケースを持って図書館へ戻ってきたのです。
図書館の職員の方は、さぞかし驚かれたことでしょう。
次の仕事を探すに辺り、世の中にはどのような仕事があるのかを知る必要がありました。
私の能力を活かせる仕事に就きたいと思ったからです。
忍者の能力を活かしつつ、忍者だと悟られないようにするには、しっかりと準備をすることが必要です。
いろいろと調べていくうちに、忍者のような仕事を見つけたのです。
それが、今の事務職なんです。
裏方として現場の職員を支えながら、コミュニケーション能力が必要で、パソコンを使う業務の事務職は、私にピッタリでした。
次こそは就職に失敗しないよう、綿密な準備をして面接に望むことにしました。
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