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『ウィトゲンシュタイン入門』3章〜4章_第7回哲学読書会
本格的な寒さの訪れた12月中旬、『ウィトゲンシュタイン入門』3章〜4章を扱う読書会を行った。
参加者は3名。前期から中期ウィトゲンシュタインに移る移行期の話、それから中期における文法形式や志向性の話が扱われた。
中期ウィトゲンシュタインへ
中期ウィトゲンシュタインは、「言語は世界の事実そのものを表す場合のみ真である(言語が世界と論理形式を共有する場合のみ真である)」という言語観から語り進んで「言語には推論の機能がある(言語には、論理空間だけでなく明-暗のような比較空間がある)」と認めていく。
私たちは「黄色をだんだんと明るくすると白になる(明-暗の空間)」と言うことはできるが「黄色をだんだん騒がしくすると...(騒-静の空間)」と言うことはできない。このように私たちは、特定の語彙に関する文法(その言葉の用いられ方、比較のされ方)を“知っている”。語りえないけれども知っている、と言える。そのことが今回の3〜4章においては特に重要と感じられた。そしてウィトゲンシュタインはこの、私たちが何故か持っているこの言語感覚を「文法」として扱っていく。
「文法」「推論」「志向性」
この「文法」によって、「黄色である」から「青色でない」という推論も導かれうる。それは、文法(言語に関する私たちの“語りえない”知識)に沿う範囲で「〜である→〜でない」「〜でない→〜である」を導く、言語による推論の可能性が開かれるということだろうか。本書では、このことが「志向性」と述べられ、願望、予期、恐怖といった言語の用法と関連づけられているようだった。
文法、志向性と、言語の持つ力を拡張して捉えていく3〜4章ではあるが、ウィトゲンシュタインの関心は「語りえぬもの」から一歩も動いていない。次回5〜6章、後期ウィトゲンシュタインはどのように言語を捉えていくのだろうか。私自身は三度目の再読になるが、まだまだ理解が通っていない箇所も多い。読書会を通じて、思索を深める探索を楽しみたい。
参加者からの感想
読書会終盤、参加者から「だんだんと、言葉の定義を押さえながら読むということができるようになってきた」「自分の分かるところだけ読むのではなく、分からないところをちゃんと読む読み方が身についてきた」という感想が語られた。
哲学書の多くは、言葉を再定義していくことによって、言葉を日常の用法から離し、日常的な用法だけでは踏み入れない概念に分け入っていくことが多い。そのことは、一見ただ分かりづらいだけのように思えるが、そうしないと日々の生活や人間の精神の内奥を語れないほどに、語彙や概念が足りていないということだと思う。
哲学者は言葉をこねくり回す人と見られがちだが、哲学者たちが本当に扱いたいのは言葉ではない。本当に考えたいことや伝えたいことを思索するときに、私たちには(ほとんど)言語という手段しかないのである。哲学者たちは、言語の再定義を以て、言語の能力を最大限拡張しながら、普段あるけれども顕れない世界の様相を捉えようとしている。そんな探索のおもしろさを、今後もみんなで共有していけたら嬉しい。