セン北夢物語

横浜市営地下鉄に乗って、あざみ野方面へと向かう。この謎の、この地下鉄独特の香りが漂う、他の電車と比べると妙にパッとしない箱に飛び込め、俺たちは飛び込まなければならない。パッとしないのは地下鉄であるが故に空気がしっとりとしているからだろうと俺は結論づけている、特に雨の日は独特の香りが強く出る。このじめっとした感じが高校生活の懐かしさを思い出させる。これは夢だ、夢の中だ。だからこそ、現実の景色と今から語られる景色は少し異なる。俺が好きなのは北新横浜駅を通り過ぎて地上に出てからだ。向こう側に山の手が見える、山沿いに新興住宅が並んでいる綺麗で上品な街。この上品さが俺は気に入らなかった。うろ覚えだが、センター南より向こう側は一辺倒に美しい街並みが拡がっていて、新興住宅地という事もあってか、あまりにも見目良すぎる景色なのだが、それが川崎の方まで続いていて、市の境が分からないほどに一辺倒なのだ。これがどうにもいけない。なぜなら、街と街は区別されるべきだと考えるからだ。ロシアの街並みはシベリア・極東方面でも西洋の空気が漂ってはいる。しかしながら線路が引かれる前に出来た街というのは、その土地独特の家、街の作りをしている。日本やアメリカという土地では、何も無いところに、線路が引かれ、法律が出来、それに従って街や家が作られるので、どこにいっても似通った景観なのだ。きっとセン南以北では、横浜市営地下鉄が引かれる前は何もなかたのかもしれない。僕がこの街で一番好ましいと思われる事は、カブトムシが多い事だ。歳勝土という遺跡がここ周辺にあるのだが、歳勝土というのはカブトムシに由来する地名なのだ。昔から多かったのだろうね。カブトムシが居ると、独特の香りがする。昆虫が好きな人は、この香りで夏の到来を確認する。そしてテンションが上がるのだ。夢の中に戻ろう。電車を乗り続け、山の手に到達したところで、俺は架空の駅を降りた。そして山の手の住宅街を歩く、練り歩く。このあたりだっただろうか。君の実家がこの坂をずっと登ったあたりにあった気がする。確か横浜市ではなかったような、ギリギリ川崎市だったと思う。だから君の家に迎えに行くときは凄く分かりにくい思いをした。そんな事を思う内に、どこからともなく、浴衣を着た男女が流れてきた。近くで祭りでもあるのだろうか、幸せそうな二人組がちらほらと、。俺は横浜中心街の下町に住んでいた事もあり、このあたりに住んでいる人を見ると落ち着き払っていて上品な印象を受けた。君ももれなくそういう人だった。このカップル達のように君も浴衣を着て、こんな風にこのあたりを俺の知らない男と歩いたのだろうか、君の過去を俺はあんまりよく知らない。俺の願いは、この街のよう上品で一辺倒に無機質で俺以外の男を知らない人生であって欲しい。切に願う。しかしながら妙に艶やかな顔をした君には俺の知らないストーリーがあっても不思議ではないとも納得もしてしまう。俺はここで一つ君に感謝しなければいけないよ。この街同様に婉容で淑やかな君がブルーラインに乗って飛び出してくれた事に。実際に朝、新羽駅で湘南方面とあざみ野方面の電車が交差して俺たちは電車を降りた。君は最後尾の車両から俺は先頭車両から降りて君を確認した時に、やっと俺は強い男になれたんだ。君も初めて艶やかな顔になれたんだ。そう信じてる。地下鉄のじめっとした香りが、切り替わった瞬間だった。お互い一日をやり過ごした後に、いつも落ち合うのはセンター北にある公園だった。お互い予定の詰まった生活だったから会うのはいつも夜の9時過ぎ。俺が君について一番好きだったところは、美人で無愛想なところ。君の最も素敵なところで君自身が人生上最も損しているところ。俺にだけ笑ってくれるのが人生で一番生きている事を実感するくらい嬉しい。俺は君の笑顔を束縛し、俺だけに縛り付けていたいんだ。でも俺は知っている。落ち合う前に君が接客で素敵な笑顔を振りまいていることを。君の笑顔には本来莫大な金が支払われるべきだ。そのくらい価値がある。それを俺はただで拝むことが出来るんだぜ。世の中タダほど高いものはないって言われるくらいだから、俺が拝んでいるのは計り知れないくらい高い笑顔なんだろう。なあもっと拝ませてくれよ。落ち合った時に君は素っ気なく近づいてくるけど、時間が経つにつれてそれを見せてくれる。この経過を感じるために俺は一日をやり過ごすのだ。上品であまりにも落ち着きすぎた君と夏の郊外の公園が交差して俺はめまいがする。これは現実だった。決して夢ではないけどあまりにも美しすぎるよ。どこからともなくカブトムシが樹液をすする甘い香りがしてきた。夏なんだなって感じた時、君が一言「夏ね、、、、」って今にも消えそうに、か細く声にする。本当に君の声は俺と違って小さい。でもこの香りが分かる人だったんだね。この感覚に縁がない人だと思ってた。無機質なくらい美しい街に住んでいるってだけの人ではなかった。夏はこれからなのに君は線香花火のように小さく一言だけ添えるものだから、あまりにも悲しくて悲しくて。それにからかわれているようにも感じた。でもやっぱり君は勘がいいのかもしれない。始まりと終わりはいつも同じところにある。祭りでも何でも準備している時が一番楽しいのと同様に始まる前が頂点だ。だから、この時間もきっと終わっちゃうんでしょ。これは確かに現実だったんだけど、一緒に夢って事にしない。それだったら諦められる。忘れる事も出来る。夢は醒めるから良いのであって、醒めない夢は決して夢とはいえない。

「もう帰りましょう」「もう?」「遅くなると困るでしょ」「門限なんかありません」「お嬢さんにからかわれるようになったらおしまいだ。おい、お勘定」俺はその綺麗な笑顔に莫大な金を払うよ。

最後は太宰治の「斜陽」秘め事より


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