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1954(昭和29)年 寺田ヒロオ、手塚治虫、藤子不二雄
1953(昭和28)年大晦日にトキワ荘に入居した寺田ヒロオは、年が明けてひとまずは「漫画少年」ほぼ専属作家のような状況だった。
連載「ホントカシラ博士」(1953.11月号〜1954.10月号まで)
1〜8月号 合作特集(坂本三郎、永田竹丸、山根赤鬼・青鬼らと)
1、2、4、5月号「絵ときまんが」
3月号〜 読者投稿ページ「漫画つうしんぼ」担当(〜1955.10月号休刊まで)
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「ホントカシラ博士研究報告」11 からす
(画像は「えすとりあ」季刊2号 寺田ヒロオ特集 より)
寺田ヒロオと手塚治虫
手塚治虫は寺田ヒロオよりも1年近く前から、完成直後のトキワ荘に住んでいた(寺田と同じく学童社「漫画少年」編集者 加藤の紹介)。
が、すでに連載を多数抱える人気作家。4月頃には長者番付に載った漫画家ということで週刊朝日の取材がトキワ荘の手塚のもとに訪れている。
1954年1月頃の手塚の連載は下記のとおり(「手塚治虫とトキワ荘」中川右介 より)
「ジャングル大帝」「漫画教室」(「漫画少年」学童社)
「鉄腕アトム」(「少年」光文社)
「ロック冒険記」(「少年クラブ」講談社)
「ぼくのそんごくう」(「漫画王」秋田書店)
「リボンの騎士」(「少女クラブ」講談社)
「銀河少年」(「おもしろブック」集英社)
「豆大統領」(「冒険王」秋田書店)
「サボテン君 第二部」(「少年画報」少年画報)
しかし寺田ヒロオはそんな手塚治虫にたいして興味関心がなかったようだ。
手塚さんの作品は東京へでる迄、知らなかった。
新漫画党「七色党がらし」児童漫画の昨日から明日へ(初出は1961年)より
ぼくは視野が狭いっていうのか、あんまり好奇心の強い方じゃないんです。今考えてみると、高校時代の友だちから、「手塚治虫っていうすごくおもしろいまんがをかく人がいるよ。読むなら本を貸すよ」なんていわれたんだけれど、ぜんぜん読みたいって気が…(中略)手塚さんを知ったのが「ジャングル大帝」が「漫画少年」に載ってからで、
寺田ヒロオ インタビューより
おそらくトキワ荘で顔をあわせたあとでも、“自分より少し年上で、少しデビューがはやいくらいの漫画家仲間”くらいに思っていたのではないか。
「まんが道」で有名になった、藤子不二雄がトキワ荘に入居する際に寺田からもらった長文の手紙には「手塚先生」ではなく「手塚さん」と書かかれている。
「新宝島」に衝撃を受けて手塚先生リスペクトで漫画家になった藤子不二雄や石森、赤塚らとはかなり温度差を感じる。
かたや手塚治虫の方も、漫画家としての寺田ヒロオにはまったく興味がなかったようだ。
手塚は新人含む自分以外の漫画家のチェックを怠らない。
上手い新人に声をかけて手伝ってもらう、というエピソードは多い。
この年の「漫画少年」4月号掲載の「ジャングル大帝」最終回では藤子不二雄A(安孫子素雄)に手伝いを頼んでいる。
『まんが道』では、藤本と安孫子が上京してからのエピソードとなっているが、それでは遅すぎる。最終回が載った四月号の進行を逆算すると、描いたのは二月のはずだ。安孫子が上京したのが二月ならば、ぴったりと合う。寺田の部屋に一週間あるいは10日間、泊まった後に、手塚に呼ばれて手伝った。
また、この年の夏にはまだ宮城の高校生だった石森章太郎を電報で呼び出して「鉄腕アトム」の手伝いをしてもらっている。
しかし、寺田ヒロオに対してはアシスタント等頼んだりすることは一度もなかった。
「漫画少年」1954.4月号の「漫画つうしんぼ」で構成:寺田ヒロオ ゲスト講師:手塚治虫 という会がある。
どの程度手塚が関わっているかは不明だが、同じ号に「ジャングル大帝」17p、「漫画教室」3p掲載している手塚が大きく関わる余裕があったとも思えない。
新人の寺田だけでは心許ないと思った編集部が手塚に了解をとり、名前とキャラクターだけ登場させたとか、そういった話ではないだろうか。
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「漫画つうしんぼ」1954.4月号
寺田ヒロオと藤子不二雄
2月、藤子不二雄A(安孫子素雄)がひとり富山から、手塚に会うためにトキワ荘を訪れる。
多忙な手塚にたのまれて寺田が相手をする。
結局一週間ほど自室に泊めてやることに。
安孫子と寺田は、確か新人まんが家のグループをつくることをそのとき決めた。新人は地方から上京する人が多いし、まんがは孤独な作業だから、グループ結成は励まし合うにはちょうどよいだろうと語り合った。
藤子不二雄:なつかしのトキワ荘時代 より
6月 藤子不二雄のふたり上京。両国の下宿に住む。
7月 新漫画党(第一期)結成
寺田ヒロオ・藤子不二雄・坂本三郎・森安なおや・永田竹丸
8月 寺田ヒロオ 腹膜炎で入院
9月 石森章太郎と初対面
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「石森章太郎伝 青春の証言」寺田ヒロオ より
合作のおかげで徐々に仕事が増える
坂本三郎、永田竹丸、山根赤鬼・青鬼らと合作をするようになったおかげか、徐々に「漫画少年」以外の雑誌にも掲載できるようになる。
一年の友(東邦出版) 7月号
二年の友 6、7、10、12月号
三年の友 7、10、11月号
二年ブック(学研)7、8月号
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また、単独での仕事(「漫画少年」以外の雑誌で)もこの年から入りはじめる。
講談社の漫画絵本〈12〉に「キューピーちゃん」4p掲載
「漫画少年」の方では、藤子不二雄も加わった「新漫画党」名義での合作が掲載されるようになる。
9月号〜 合作特集 新漫画党 16p
10月号〜 漫画図鑑 2p
合作特集は毎月決めたテーマに沿って一人あたり2p程度の読切漫画を描いたもの。
「漫画図鑑」は漫画というよりはカットイラストの寄せ集めに近い。
どちらも「漫画少年」休刊になる1955年10月号まで毎月掲載される。
10月 手塚治虫がトキワ荘退居、空いた部屋に藤子不二雄のふたりが入居。
石森章太郎はまだ宮城在住の高校生ながら、「漫画少年」翌1955.1月号から新連載「二級天使」でデビューを果たす。