〜1953(昭和28)年 寺田ヒロオ上京、トキワ荘へ
寺田ヒロオ
昭和6(1931)年8月4日 新潟県に生まれる。
勉強は嫌いだし、他のスポーツはいっさいダメなんだけど、なぜか、野球だけは性に合ったんですね。
対談:寺田ヒロオ・竹宮恵子 より
(初出は「Passe Compose パセコンポゼ 過去完了形」1980.9.10 駸々堂書店)
『漫画少年』には、昭和二十三年四月号に出合った。
「漫画つうしんぼ」前後 より
昭和23(1948)年
寺田ヒロオ16歳の春、旧制中学から高校二年に編入。野球部に入る。
漫画と出合う。井上一雄「バット君」に感銘を受ける。
(学童社「漫画少年」は同年1月号が創刊号)
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「バット君」井上一雄
友人と漫画の同好会をつくる。
おそらくはその直後あたりからいろいろな漫画誌の投稿コーナーに作品を送っていたようだ。
「漫画少年」12月号で初めて投稿漫画コーナーに入選する。
昭和24(1949)年
「漫画少年」4月号 入選
「バット君」は井上一雄の急逝により3月号掲載分をもって終了。
10月号から「バット君」再開。読者の投稿を募り、福井英一が入選作の修正や補筆を行うかたちで掲載(1950年6月号まで)。
他に「東光少年」(東光出版社)、「少年の野球」(恒文社)などの雑誌にカットイラスト掲載。
昭和25(1950)年
「漫画少年」2月号、10月号 入選
3月号 井上賞 一等
4月号 井上賞 優秀
「野球少年」(芳文社)12月号、「東光少年」などにカットイラスト掲載
この年の4月に高校を卒業して新発田警察に事務員として勤務開始。
同じく「漫画少年」に投稿していた田中輝夫(のちの棚下照生)から手紙(年賀状?)が届き、文通をはじめたのはこの頃か。
「漫画少年」11月号から手塚治虫「ジャングル大帝」連載開始。
寺田ヒロオは井上賞で入賞まではするものの、結局作品掲載までは届かなかったようだ。
昭和26(1951)年
「漫画少年」正月号、4月号 入選
「野球少年」2月号、5月号などにカットイラスト掲載
警察事務員として勤務していたが、試験を受けて警察官になるようすすめられて、それが嫌で電電公社の事務員に転職。野球チームで活躍。
社内報に『信越君』という4コマ漫画を連載しはじめる。上京前に21回、上京後も1955〜57年にかけて23回掲載した。
シンポジウム報告「漫画家・寺田ヒロオの軌跡ー新発田市、トキワ荘、スタジオゼロ」より
棚下照生、延岡から上京。
昭和27(1952)年
「漫画少年」8月号、10月号 入選
「アサヒグラフ」9月3日号 マンガ学校 入選
昭和28(1953)年
「漫画少年」4月号、5月号、7月号 入選
「アサヒグラフ」2月25日号 マンガ学校 入選
「面白倶楽部」(光文社)8月号 1p漫画掲載
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棚下照生に何度も手紙で誘われてついに上京を決意。
9月、西大久保の叔父さんの家に居候。
二週間後?芝三田綱町の下宿に移る。
上京して漫画家としてやっていくぞと、いくつかの出版社に持ち込みしたようではある。
一度、講談社に持ち込んでみたけれど、全然ダメでね。要するに下手でおもしろくなかったんです。結局、学童社一つに賭けまして。学童社に行けば、小さい仕事をくれたんです。
寺田ヒロオ インタビューより
漫画家生活が、順調だったわけではない。
持ち込み原稿は全部はねられ、『漫画少年』を頼りに日参し、小さい仕事をもらってかいた。
寺田ヒロオ:(僕の青春回顧)「トキワ荘の楽しさ」とは より
「漫画少年」の学童社だけはすぐに仕事をくれたようではある。
しかし、「漫画少年」は発行5年めの当時すでに売れゆき悪く返本の山、原稿料も満足に払えないから連載陣にも描いてもらえないこともたびたびあったようだ。
よって、安い原稿料(しかも払いが遅れることも多々あった)で誌面を埋めてくれる寺田ヒロオのような新人は「漫画少年」にとって非常にありがたい存在だったと言える。
なにはともあれ「漫画少年」のおかげでプロの漫画家としての道を歩み始める。
11月号 連載「ホントカシラ博士」開始(〜翌1954年10月号まで)
読切「ちゃっかり君」4p
特集「漫画修学旅行」(山根赤鬼・山根青鬼・横向幸雄と合作)
12月号 連載「ホントカシラ博士」
読切「ビッコの子猫」3p
特集「まんがクリスマス大会」(坂本三郎・永田竹丸らと合作)
他にもいくつか小さいカットやコマ漫画等も描いていたようだ。
12月31日 「漫画少年」編集者 加藤宏泰の紹介でトキワ荘に入居。
この年の8月、寺田よりも2歳年下の藤子不二雄は、手塚治虫の紹介で描き下ろしの単行本「UTOPIA 最後の世界大戦」(鶴書房)を刊行している(このときの筆名は足塚不二雄)。
そのおかげで地元富山にいながらもいくつか仕事の依頼が来るようになる。