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1959(昭和34)年 少年サンデー創刊「スポーツマン金太郎」
サンデーとマガジン
1959年3月 小学館「週刊少年サンデー」、講談社「週刊少年マガジン」が同日創刊。
「少年サンデー」編集部は、すでに漫画家としてビッグネームだった手塚治虫にまず声をかけ、その次に声をかけたのが寺田ヒロオだった。
当時「鉄人28号」で人気だった横山光輝には忙しいため創刊号からの連載は断られたが、いずれ連載描いてもらうことを確約(「伊賀の影丸」が2年後の1961年から開始)。
他にも藤子不二雄にも声をかけて人気の漫画家たちによる新連載を確保した(「少年マガジン」編集部は数日遅れで藤子不二雄のもとを訪れるが、先にサンデーに描く約束をしていたために断られている)。
寺田には最初から野球漫画を描いてもらうための依頼だった。
「少年サンデー」のマンガと並ぶ柱はスポーツだ。スポーツと言えば当時は野球だった。「少年サンデー」に野球マンガを描いてもらいたいと打診した。
囲い込みに成功した手塚が表看板だとすれば、隠し球として必要だったのが、寺田ヒロオ(1931〜92年)の野球マンガだった。寺田は、学習雑誌に描いてもらっている中で、唯一、例外的に豊田が認めていた作家で、やはり線が太く、絵がきれいだった。
「少年サンデー」創刊号の漫画は下記のとおり(創刊当時はサンデーもマガジンも“大人向け週刊誌の子供向けバージョン”という立ち位置で、漫画の比率がいまほど多くはなかった)。
手塚治虫「スリル博士」
寺田ヒロオ「スポーツマン金太郎」
益子かつみ「南蛮小天狗」
藤子不二雄「海の王子」
横山隆一「宇宙少年トンダー」
表紙はプロ入り2年目ながらすでにスター選手だったジャイアンツ長嶋茂雄。このことからも当時の野球人気がうかがい知れる。
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1959年4月5日号
人気漫画家による連載を確保した「少年サンデー」は当時「少年マガジン」よりも売れた。
連載漫画の中で一番人気があったのは手塚治虫ではなく(「スリル博士」は半年ほどで連載終了する)、寺田ヒロオ「スポーツマン金太郎」だった。
「海の王子」評判がいいのでもう十回、第三話つづけてほしいとのこと。承諾する。低学年層に支持あるとのこと。寺さんの「スポーツマン金太郎」は低高学年共通に人気あるとのこと。
昭和34年 8月12日(水)
その他の連載(月刊誌)
週刊連載によって多忙を極めたためか、月刊誌の3作品がこの年連載終了。
「スポーツマン佐助」(芳文社「野球少年」)1959.6月号で終了
「ラッキーちゃん」(講談社「たのしい三年生」3月号まで/「たのしい四年生」4月号〜)1959.9月号で終了
「ホープくん」(講談社「ぼくら」)1959.4月号で終了
翌1960年以降まで連載が続いたものは下記の3作品。
「背番号0」(芳文社「野球少年」)
「もうれつ先生」(光文社「少年」)
「五九郎さん」(集英社「おもしろブック」→「少年ブック」雑誌名改題)
しかし新たにはじまった連載も3作品。
「わんぱく記者」18回(少年画報社「少年画報」1月号〜1960.6月号)
「きんちゃんとももちゃん」(小学館「小学一年生」7月号〜1960.3月号)
「ホームラン教室」(秋田書店「冒険王」12月号〜1960.6月号)
「ホームラン教室」は、テレビドラマとのタイアップ連載で、原作は高垣葵(まもる)。
野球少年のストーリーということで寺田に依頼が来たのだろうが、おそらくは多忙のため、1960.7月号からは赤塚不二夫、石森章太郎作画(翌月8月号からは赤塚不二夫のみ)と作画者交替して連載は続けられた。
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読切など
『スリラー球場』50p(芳文社「痛快ブック 増刊」正月号)
これは同じ芳文社の雑誌「野球少年」1957.4月号の別冊付録「まぼろし球場」(128p)を改題したものでおそらく内容はまったく同じもの。
これを改題して掲載するにいたった経緯は不明だが、判型の小さな別冊付録をB5版にするにあたってコマを切り貼りして128pが50pになったのだろう。
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党のメンバーが手伝った証か。
その隣のマークは?
貸本漫画専門?出版社のきんらん社から下記の漫画が単行本として出る(当時は雑誌連載された漫画が単行本化することはあまりなかった)。
「スポーツマン佐助」全10巻
「背番号0」全8巻
3月には長男が誕生、9月で寺田ヒロオは28歳になった。
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(マンガショップ)より
夫婦共に「修羅場」だったというのはまさにこの頃の話なのだろう。
結局(幸か不幸か)手先が器用な母がベタ塗りの手伝いをする事になるのだが、本来ならばゆっくり休みたい筈の産後間もない母にとって、生まれたばかりの兄をおぶっての連日のベタ塗りは、1日の平均睡眠時間が2時間程の父と共に、まさに修羅場であったと思う。
寺田紀子「はじめに」より