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生きる意味

つい最近、友達とご飯を食べにドライブで連れて行ってもらった。
その日に、生きてる意味が分からなくなる時があるっていう相談を受けた。自分は生きてる意味とか考えたことがなかったから、適切な助言ができなくて少し悔しくなった。だからちょっと深堀してみようと思って考えてみた。

私が生きている意味ってなんだろう。この前本屋さんに行った時に、題名は覚えてないけど、並んであった本の帯のところに「1番効率のいい生き方は、生まれてすぐに死ぬことだ。」と書いてあった。なんて残酷なんだ。そんなこと自殺したい人に言ったら100%身を投げ出すだろう。
でも同時にたしかに。と思った。でもそうしたら、人間って生きていてなんの意味があるんだろう。生きる意味ってなんだろう。

そもそも、自分が死を覚悟する時はどんな時なんだろう。
自分が「生きている」っていうことを実感できていない時かな。じゃあそれってどんな時だろう。
死んだ方が楽だと思えるくらい辛い時。
好きなことを全部塞がれた時。
自分がありのままじゃなくなった時。
支えてくれる好きな人から全員に否定された時。
自分自身に嘘をついている時。
何をしても幸せを感じなくなった時。

私は辛いことがあった時、乗り越えた後のことを考えると「ここで死んでたまるか」っていう気持ちとか「こんな辛い気持ち味わされといて、その後は幸せに決まってらァ」っていう気持ちとか「これ乗り越えたら絶対いい女になる」とかそんな気持ちが湧いてくる。それも、ワンワン夜枕で突っ伏して泣きながら。風呂場でシクシク泣きながら。考えただけで、今元気な私は笑えてくるほど変人だと思う。
それは最近できるようになったこと。幼い未熟な頃は、死を過ぎったこともある。ビビリだから実行するほどでは無いが。でも結局、
神様が勝手に仕向けてきた試練のせいで、不幸になってこの世界から消えちゃうなんて、あまりにも神様の言いなりすぎる。悔しすぎる。そんな悲しむ事をする神様に一番近い場所に自ら向かっていくなんてドMすぎる。
落ち着いたあと、考えたらそう思った。

でも、本気で辛い時はきっとこんなことを言えない。それも分かってる。
本題に戻ろう。生きる意味。

そもそも人間、いや、全ての生き物は、子孫繁栄、生殖するために生きているようなものだ。命のバケツリレーの途中にいる人くらいの役割でしかない。
そこに意味を見出そうとする人間って、宇宙目線で見ると、結構無力なんだな。人生は死ぬまでの暇つぶしという言葉もあるが、その通りだ。

生きる意味は、暇つぶしのためだ。だからこそ、自分の心に忠実に。自分のやりたいことをすればいい。いい人間になったところで、実は本来なんの意味も持たない。

でも人間として生まれてきた意味ならどうだろう?
本当に本能で生きるのが生きる意味か?それならサバンナの動物でもできる。言語を話せなくてもできるってわけだ。わざわざ苦労して言語を覚えたって言うのに割に合わないじゃないか。人間として、この社会で、この場所で、この時代に、この家族の中で、この私として生まれてきた意味。

命を繋ぐことを生き物の宿命だとするならば、
全ての人間の宿命は、人間にしか持っていない意志を繋ぐことにあると思う。
動物は、言葉を発しない。本能のままだ。理性を抑えたりもしない。遺伝子的な繋がりはあるが、基本本能のまま我慢しないで生きている。それも憧れるが。

じゃあ、日本人に生まれてきた宿命は何だろう。日本の文化を後世に伝えることかもしれない。礼儀正しさ、約束、時間を守る、丁寧なおもてなし。

この世代に生まれてきた理由はなんだろう。この世代で起きていることを継ぐためかもしれない。この世代で生きた結果、次はどうしたらいいかを。このZ世代で。SNS社会で生きたことを。この時代のやり方で。

そして、地元の田舎で、あまり家庭環境は素晴らしく良いとは言えない家族で、三姉妹の真ん中で生まれてきた意味ってなんだろう。

開放された場所で、穏やかさを学び、自然と一緒に生きる大切さを学んだ。団地暮らしだったから、色んな年齢、個性、家庭環境の人と関わる大切さも学んだ。その上で生じる問題も。障がいを持っている人も、悪いことをしようとしてしているのではなくて、真面目に何かをしようとしていること。それに、生物的なことで言ったら障がい者からしたら私も障がい者だ。過保護な上に、若干毒親気質もある家庭環境は、忍耐力と前向きに捉える力と、暴力や人を傷つける人はその人も傷つけられた過去があったり、満たされない心があったりするということ。女姉妹の真ん中に生まれた私は、女社会のどす黒さも、女という生き物ならではの強さ、あとは美的感覚とか。姉と妹から得たエッセンスで得することもあれば損することもある。そんなことを学んだりもした。21年間生きる中で、関わってきたのは家族というコミュニティだけでは無い。バレーボール、ダンス、空手、選んだ学校での人間関係、友人、恋人、先生。色んな場所から、色んな人から、色んな機会から、学びを得て、失敗をして、経験として私の中にある。

結局人が生きる意味は、学んだことを、経験したことを、そこから生まれた自分の美学を次に伝えるためなのかもしれない。
もしくは、そこから自分が好きなことを誰かに受け継ぐことなのかもしれない。そこからほかの人間の生きる(=命を繋ぐための行為)を長引かせる希望になるのかもしれない。

私の妹は、自分の足や腕を刃物で傷つけていた。いわゆる自傷行為だ。今も完全に辞めたか分からないが、知った時は怖い以上に、身内が死ぬかもしれない、死にたいと思っている、生きることに辛さを感じているという、悲しいではカテゴライズできない思いが募った。それを考えることで、家族はみんな沈んでいた。みんな生きていて楽しくなかった。笑顔ではなかった。
この期間、みんな彼女の喜ぶ顔がみたくて家族は必死になって考えて、喧嘩もして、悩んで、ぶつかって、愛を伝えて、悩みを打ち明けようと自分の悩みも打ち明けて、心の扉をこじ開けようとしたりしてみた。
つい最近、彼女が少し幸せな顔を見せた時、家族みんなが笑った。今まで悩んでいた事なんて、喧嘩したことなんて、一瞬でどうでも良くなった。
つまり、自分が笑顔でいること、幸せでいること、幸せに過ごしていること。それが、周りも幸せにする。
それだけ?って思うけど、本当にそれだけなんだ。
自分を大切にするってことは、大切な人たちを大切にするのと同じ。自分を大切にして離れてしまう人は、私のことをそこまで大切にしていない。それか、自分で大切にできなくて、怖くて離れてしまう。

ただ、そこには大切にする人の中に「愛」があるのが大前提だ。周りの人に対しても、自分自身に対しても。怖くて離れる人は、自分自身をまず愛すことから始めればいい。大切にしてない人が離れた時は、そっとしておけばいい。
自分もいつかその時が来るかもしれないのだから。

結局、生まれて死ぬのが1番効率のいい生き方な訳で、生きている時点で効率が悪いのなんてガッテン承知の助な訳だ。それをあえて、効率が悪いのも承知で、効率の悪い「愛する」を選んでくれた人がいる。癒してくれる自然がいる。
だから、私は生きる。生かされている。
生きる意味は、私が幸せでいること。
幸せでいることは、周りも幸せにするってことだから。
「継ぐ」という言葉が何度も出てきたが、人と人は切っても切れない。人間は人がいないと生きていけない。それは、直接毎日関わる訳では無い。心の中で、何かしらのかたちで。だから、自然に影響され合い、引き付け合い、結ばれる。勝手に継ぐもんだ。
そして、その地点にたどり着いたけど、日本人として、人として、生まれてきたことも忘れてはいけない。日本人として、人として、教えてくれた人がいる。出逢えた人がいる。学ばさせてくれた人がいる。
秩序、規範を守る。義理、人情。こんな素敵なことを学べているんだから、大切にしなきゃね。

心が疲れた時は、起点の「幸せでいること」に戻ろう。
疲れてる時は、サバンナにいる動物レベルでいい。少し愛があるともっといいな。でも、動物でいい。所詮動物なんだから。
余裕がある時は、その上で○○として生きている意味があるってことを理解すればいい。そして、何をするべきか、使命を考えてみると生き方に兆しが見えるかも。

そしてそれを伝えられる教師っていう職業を選んだことは、かなりラッキーなのかも。4月から頑張ろう。

死にたい人がもしいるとしたら、私は止めれないかもしれない。でも、生きるについては少しなら語れると思う。
死なないで。そんなセリフは到底響くはずがない。効率のいい選択をしているまでだ。

ご飯食べる?何食べたい?何したい?誰に会いたい?

それくらいなら言える気がする。

私の大切な家族、友達、出会った人。自然。そして私。
みんな、幸せでいよう。

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