第n次反抗期
携帯をわざと家に忘れていった。
体調が優れなかったけれど外に出ないといけないと思って友人と待ち合わせたあの日。書こうと思っていたブログもサボって、自分の為に費やしたあの日。
あの日、私はわざと携帯を置いていった。
何故か、と言われたら何故かはわからなかった。けれど『今日携帯持ちたくないんだけど良い?』というメッセージは既に送信されていた。数分待って通知音。友人からの返事は『何時にどこにする?』。私の友人は対応力が凄いらしい。
これは携帯があったらわからなかったことだろうか。
とっぷりと暗くなった外に出る。その日はカーテンを開けることもしていなかったからそれが初めての今日の空気で、それが初めての今日の景色だった。寒くて暗い。今日は太陽は登らなかったんだろうか。いや、登ったはず。私が見ていないだけできっと。
小学生の頃みたいに打ち合わせてから着いた集合場所。手を振る友人が見えて、無事に出会えたことにホッとする。駅は広い。携帯が無ければ出会えないかもしれない。昔は当たり前のように行っていたことも、携帯を手にした今は非常に不便に感じる。
それから普通に遊んで、帰った私を迎えたのは16件の通知だった。LINEにブログ、メールからゲームまで様々だったけれど、私が遊んでいる間に溜まった通知。これを全て受け取って、更に返事もしていたら私は何分携帯に費やしていたんだろう。
『明日の課題なんだっけ?』『また遊ぼう』『笑』『〇〇さんがスタンプを送信しました』『体力が回復しました!』『〇〇さんがあなたの投稿をいいねしました』。もし携帯を持って行っていたら、私はこの通知たちに何を返していたんだろうか。
携帯はとても便利だ。ガラパゴスケータイと呼ばれるようになった折り畳み式のものだって、数年前までは主流だった。初めて画面を触れる携帯、所謂iPhoneやスマートフォンが出てきたときは幼いながら革命だと思ったけれど。
でも最近、その便利さに振り回されている気がする。私も、他の人も。
画面を挟んで会話をすることが増えたからか、対面での会話中も画面に目が行くことがある。暇な時や休み時間にすぐ手に取ってしまうから、友人の輪を広げようとはあまり思わない。SNSに自分の心情を吐露しすぎて、見せたくなかったところまで気がついたら伝わっていたこともある。
振り回されている。私は特に。この手のひらより少し大きい電子機器なんかに、160センチを超える私自身を。
勿論、携帯があることで増えたこともある。かさばらずに地図や連絡先を持ち歩けるし、自分を発信する場が増えた。世界各国の人と友人になることも可能だし、知らなかった考えや文化も指先一つで調べられる。本のように劣化せず、常に更新し続け、形式も問わずに。素晴らしいものだと思う。同じ人間が生み出したとは思えないほどに。
けれど、携帯は道具だ。臓器ではない。置いていっても死なないし、離れたって生活はできる。もしかしたら学校で頻繁に開かなくても、友人といる時間を割いてまで構うものでもないのかもしれない。
揺れるバスの中。隣で笑う友人の顔を私は飽きるほど眺めていた。そういえばあの時友人は携帯を触っていなかった。だから目が合っていたんだ。当たり前のことなのに嬉しく感じる。あの日の私たちはきっと、電波を通さなくったって楽しい時間が過ごせていた。
携帯を置いて行った日。時間もわからないまま部屋に帰ったあの日。それは、街中に溢れた電子への小さな反抗だったのかもしれない。