わたしの不幸自慢

考えなくても小さな頃からあまりメンタルが丈夫でなかった気がする。

5歳の時、父方の祖父母の家をリフォームすることになり、その間我が家に祖父母が住まうことになった。
祖父母のことは嫌いではなかったと思う。孫として可愛がってくれていたし懐いていたと思うのだが、祖父母がうちに来て、私が元々寝ていた部屋を住まいにすることになり、私はリビング横の畳があるスペースで寝ることになった。
ある日からわたしは夜な夜なふと起き上がると元々自分が寝ていた部屋に戻ろうとしていた。らしい。夢遊病というやつ。自分に記憶はない。

小学四年生の頃、学級崩壊がおきた。
少しの期間不登校というものになった。なんで復帰出来たかは覚えていない。
その頃の私は怒鳴り声、大きい音に過敏に反応
してしまい、とくに雷が地雷中の地雷だった。
いまでいう繊細さんのようなものだったのかもしれない。
学校の帰りの会の途中からみるみる黒い雲が広がり、大雨になり落雷が酷くなっていたことを今でも鮮明に覚えている。パニックを起こした私は泣きながらカーテンを閉めてほしいことを担任に伝えたが、却下された。クラスメイトが必死にパニックになっているわたしをどうにかしようとしてくれたことを覚えている。担任は「そんなことで泣いていたらお母さんになれない。」というなぞの理論を繰り広げていた。
後日母がその様子を聞いて学校に抗議を入れに来たと記憶している。自分が嫌だと思ったものをきちんと把握してくれる親でよかったと思いつつ、ひとつひとつそれらを汲み取って来てくれた母はどれだけ苦労しただろうか。

中学になりなんとなく学校に行くことが無くなった。小学生の時から続けていた吹奏楽をやりたかった。部に行くと同じ学年の同じパート志望の子が先輩にチヤホヤされる代わりに「たかはしさんは可愛くないから。」という理由でほとんど構われなかった。ただ楽器をやりたかったのに満足にそれもできなさそうで、低俗でキモかった。
あのピン留めは先輩に目をつけられるからダメ、あれもダメ、これもダメ、よく分からない、校則でもないルールを守らなければいけない理由がわからず今思うとただ気持ち悪いの1点で学校に行きたくなくなっちゃったのだと思う。
この気持ち悪さを、感じながらもきちんと社会や集団に生きることができる人とそうではない人では明確に差があると思う。たぶん。
私はできなかったからこれである。

高校は通信制高校に所属しながらサポート校に通った。2年生の頃からは不良オタクのようなグループと遊んでいたが、タバコを吸ったり素行の悪さからどうしてもここには居られないなと思い静かにグループから離れていったら明確に嫌がらせをされるようになった。
その中の後輩の男の子に告白をされ、それを断ったらほぼ卒業までその事でからかわれ続けた。本当に人間は気持ち悪いと知った瞬間だったと思う。

高二の頃、初めてアルバイトをした。短期2週間の繁忙期のみの採用だった。
本当に始めてのアルバイトでマニュアルの分厚さに圧倒された。それ通りにできないとしこたま怒られた。某回転寿司屋だった。
どうしてそんなに年齢の変わらない𓏸𓏸はできて、あなたは出来ないの?とバイトリーダーの成人女性にいわれた。
𓏸𓏸さんはもうその店で数ヶ月バイトをしている。かたや私は入って2日目だった。自分はやはり無能なのだと思い、それでもどうしても欲しいものがあったから2週間の契約期間は乗り切った。
2週間最終日、店長から固定でバイトしない?と誘われた。2週間、この人はわたしがバイトリーダーにしこたま怒られていた、イヤミを言われ続けていた場面を見ていたのにこれか、と思い、きっとこの先も助けてくれない大人が山ほどいるんだろうと感じた。

大学の就活期、街中で見ていつも素敵だなと思っていた雑貨屋さんの採用面接にいった。小さな会社だった。
事前に新卒用の履歴書を送ったにもかかわらず、面接担当の社員に言われた言葉は「あー、うち新卒採用してないんだよね。」だった。
片町1時間、往復2時間。なれないヒールを履いてきたくないスーツをきて、それで終わりだった。
その日から就活を辞め、わたしは姫カットになった。

大学生の頃父親が失踪した。失踪したということにしておいて下さい。多分今も生きている。
誕生日になると未だに「母のことを助けてあげてください」という手紙が来る。自分ができなかったことを、他者に押し付ける傲慢さが大嫌い。
わたしは他者に何かを押し付ける人間にはなりたくないと、毎年誕生日に思う。


こんな人生送ってたら仕方ないだろうよとおもうことも多々、でもやっぱりひとつひとつのエピソードに負けたくない。
人生最大の敵は、悲しいけど過去の自分だ。
不幸自慢があっての私だけど、いつか全部忘れられるくらい、自分が自分を幸せにしてあげるからね。

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