INFJの私が考えること・大事にしていること
久々に、INFJの私が考えていることあるあるを書いてみようと思う。
何か根拠に基づく記事ではなく、普段自分が考えていること・大切にしていることのうち、「なんかINFJっぽいよな」と思うことを挙げていきます。
分かる!と共感いただける部分があれば僥倖。
↑2年半前に書いた記事。今振り返ると勢いがあって面白い
計画・下調べは欠かさない
これは「J」の最たる特徴であるが、とにかく計画することがスタンダードである。
計画するのが好きというより、計画および下調べをしないと気が済まない。
例えば自分1人でどこかに出かける時も、交通手段を調べ、運賃を把握し、乗り方を調べる。バスなら前乗り後ろ降り、Suicaをタッチするタイミング、時間ごとの混雑度などを調べる。少し特殊な列車や、スーツケースなど大きい荷物を持つときもイメージトレーニングを欠かさない。うまく乗れなくて後ろの人に迷惑をかけたくない…という気持ちが大きい。
ちなみにこれに関しては、友人たちを見ていて、自分が心配性すぎることを最近自覚してきた。大抵のことはどうにかなるし、本当に迷った時は大体の人が教えてくれるだろう。
でも、できることなら周りの人に頼らず自己完結したいし、前日の夜に「大丈夫かな」とモヤモヤして眠りに落ちるよりは、「やることはやった」と思って寝たい。
人と一緒に行く旅行も、「どこに行きたいか」「何を食べたいか」を挙げ、どの順番で回るか、移動手段はどうするかそれぞれの滞在時間はどれくらいかを結構細かく決めたい。定められた時間の中で最大効率を導き出したいし、「次どこに行くか」決まっているのは心に安寧をもたらすからだ。
これを話すと主にPの友人たちから、「そんな計画通りに行かないこともある」と反論されるが、安心して欲しい。滞在時間は一般的な統計の+15分で見ているし、それぞれの友人の好みから好きそうな見所をピックアップしてさりげなく組み込んだりもしているので、お楽しみいただけると思う。
…え?「細かく決められるとプレッシャー」?「旅の醍醐味は現地で思いもよらなかったものに出会えること」?
それは…申し訳ない。
という感じで、最近は余地を持たせて楽しむようにもしている。
実際、次どうしようかね〜 あ、あれ美味しそう〜食べちゃう?でも夜ご飯が〜 という気楽さは大事だなとも思う。
ただ、主軸となる計画は絶対にあった方が良いと、心の中では思っている。
性別の考え方
よくINFJの男性は女性らしく、女性は男性らしい人が多いと言われている記事を見かける。
私は女性なのだが、確かに男性らしい面があるかもな〜と思う。
というか、男性と女性の真ん中にいたいという気持ちがあるかもしれない。
INFJの方達は、男性らしい女性らしいというよりかは、「真ん中」にいようとする方が多いのではないかと考えている。
私の場合は、例えば、学校や会社で「それは今まで男性がやってたポジションだよ」と言われるようなことも「そうですか」とやってのけることがあった。ゴリゴリの体力仕事ならさておき、「人間なら誰でもできること」であれば、できる人がやればいいのではと思う。
女性の集団にいて、みんながこれはやりたくないな〜と思っていることをやったり、不安がっていることは率先して対処したりする。自分でもよく分からない感情だが、男性よりも女性を安心させる方が自分にとってはモチベーションが上がる。
恋愛においても、私は運転が好きだから積極的にドライバーに回ることもあるし、奢られることも対等でない感じがして嫌だし、デートプランを練ることもある。たまにふざけた感じでレディーファーストされるくらいが一番心地よい。
逆に、「可愛らしさ」みたいなものは本当に出せない。
ここまで書いていて気づいたが、INFJは特に「平等」が好きで「理不尽」が苦手だから、男性だから努力する、女性だから受け身でいい、といういわゆるメジャーな価値観にフィットしないのかもしれない。
ただ、時代は進んでいて、上記のジェンダー観は少しずつ無くなっていってるような気もしている。個人的には嬉しいが、ジェンダーロールに則って幸せを感じる人もいるし一長一短だとは思う。
ただ、「〇〇らしさ」に縛られて苦しい人がいるなら、少しずつシフトチェンジできそうなこの波はとても良いものだと感じる。
「救いたい」という言葉への違和感
INFJは信頼できる人と深い話をすることを好むが、そう言った話の中で出てくる「救われたい」「あの人を救いたい」という言葉に私は違和感を覚える。
私は「救う」「救われる」という言葉に対して、片方の情緒的な働きかけのおかげで他方が「完全に良くなる」という理解をしている。
なんだか、白馬の王子様がある日急に現れて、少女の恒久的な幸せを約束してくれる、そんな展開を「救い」と称して待っているような気がしてしまうのだ。
自分は白馬の王子様になれると思っている人も、自分は待つ側の少女だと思っている人も苦手だ。誰も他者の人生に責任を負うことはできないし、同様に自分の人生を誰かに預けることはできない。
誰かに救ってもらわないと前に進めない、そんなふうに考えることは、悩んでいるその人に対してとても失礼だと思う。
その人自身が持っている生命力を信じることこそが一番重要だ。その生命力を思い出すための協力は惜しみなくする。
その人が「歩きたい」と思ってリハビリを始めて少しずつ歩けるようになる、その過程が何よりも重要と思う。
王子様が馬車に乗せてくれて素敵なお城に連れて行ってくれても、自分の足で歩けるようにはならない。
しんどくても、十分に休んだ後に、何くそと自分で歩こうとすることが何よりも尊く美しい。
他方で、「誰かの救いになれば嬉しい」という言葉は好きだ。能動的に誰かの人生の責任をとりに行くのではなく、どこかのあなたに届けば良いな、と道々に置いていくアドバイスや労いの気持ち。
受け取り手はそれらを自分の意思で拾い、人生の足しにしていく。会ったこともないどこかの誰かの経験が自分の知恵になる。
見知らぬもの同士の「救い」は、そういうくらいで良いと思う。
神社仏閣で祈ること
神社仏閣で手を合わせ、お伝えすることは日頃の感謝とこれからの世界平和。
余談だが母は親戚家族一人一人の、その時のトレンドに合わせたお願い事をしているらしく、一緒に神社に行くと「まだ?」というくらい時間をかけていて面白い。
常々思っているが、世界平和や人類のことを考えるより、自分が幸せにできる範囲の人のことに注力できる方がよほど良いのかもしれない。
感情表現が抑えめ
「性別の考え方」のところでも触れたが、私は女性特有の可愛らしさが出せないし、そもそも感情表現もかなり抑え気味な方だと思う。
心が凪いでいるというわけでもなく、内側で湧き上がる感情はむしろ大きい方かと思うが、外に出力されない。
「美味しそう」「すごい」などの言葉を発した時、たまに「本当に思ってる?(笑)」と言われる。どうやら声のトーンが低く、表情が動いていないようだ。
本当に思ってはいるのだが、高い声で「美味しそ〜!」と言うのも、なんだか恥ずかしいし自分のキャラではないように感じてしまう。
友人に、本当に嘘のない感情表現ができる人がいるのだが、素直でとても可愛らしいなと思う。
一応私もその子といる時はいつも以上に感情表現を頑張ってみるのだが、やっぱりそんな自分に微かな違和感を覚える。(笑)
同じコミュニティに属する人たちには、「最初すごくクールな人かと思ってました」とよく言われる。
うーん…
個性として大事にしたい気持ちもするし、もしかしたら近寄りがたさを感じる人がいるかもしれないし、大人として最低限の笑顔や反応は必要だし…と悩む。
特にそう言うことに言及せずにそばにいてくれる人たちには感謝が尽きない。
本物志向
本物や本質に惹かれるところがある。
ブランドの模倣品を買う人が稀にいるが、よく分からない。
いくらその模倣品のクオリティが高く、周りの人間に対して「私が持ってるこれは本物です」と騙すことができても、他でもない自分のことは騙せない。
模倣品を持つことをプライドが許さないし、耐えられない。
また、模倣品は本物を作っている生産者への冒涜でもある。
作り出す苦しみを経験することなく甘い汁を吸えると思ったら大間違いである。
私はリスペクトも込めて、オリジナルを買うようにしている。
ブランドに限った話でなく、香水なんかでも「ジェネリック〇〇!」という特集がなされ、たくさんのいいねがついているのを見かけるが、正直品がないなと思ってしまう。
TikTokで漫画の切り抜きが流れてくる、YouTubeで考察動画が上がっている、それで内容を理解しているという人にも同様の感想を抱く。
結局、非正規のルートで何かを得て満足している人に私は疑問を抱いているのだと思う。
心を満たすのは本物だけと思う。
作り手がいることを理解し、その人の美学に思いを馳せ、形になったものを愛でる。
たまのお手入れで、何年経っても使える優秀な材質。
いくつになっても似合う、身につけている人を引き立ててくれるようなデザイン。
それ素敵だね、と言われた時に胸を張ってそうでしょう、と言える、相棒のような存在。
そういったものに出会うため、私はこれからも何が本物かを見極める力、何かを美しいと思う感性を大切にしていきたい。
終わりに
2年半前の記事と比較して、面白みというか愉快さや勢いが減った代わりに少し地に足のついた記事が書けたかな、と自分では感じた。
移ろいというのは面白いですね。
日々自分自身が変わっていくことを感じながら生きています。
やっぱ生きるって興味深い。
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