感情はナマモノ
7月は関西にいることが多かった。大阪、京都、いやその前に岡山の山奥にある廃校も行ったな。ちゃんと色々あった。
最近も変わらずいろいろな言葉が、想いが頭の中を飛び交っている。けれどその想いは時間が経つにつれてきちんと変化している。きちんと成長している。
今のテーマは「依存と自立」。
8ヶ月ぶりにに再会した人に
「会うたびに成長してるな。」
と言われた。
とても嬉しかった。けれど、今の私は自分の足で歩けていない。体重を全て他人に預けてなんとか立てている。
そんな自分に価値なんてあるのかと度々問いただしてしまう。
自分のできないことに奮闘する日々。毎日何かに追われて、こなすのに必死で、学ぶのに必死で、足をとめまいととにかく必死に足を前に出し続ける。
ゴールの見えないどこかに向かって必死に食らいついている。
前よりも友達と遊ぶ機会が減った。友達と遊んでいても頭の中に仕事がある。自分はできないんだから、誰よりも努力し続けなければいけないと、頭の片隅で常に喚起される。
前よりも収入が減った。アルバイトをしていた方が儲かると何百回も言われた。実際にアルバイトをしている友人の方がちゃんと稼いで、ちゃんと遊んでいる。
もちろん出会いは増えたし、今の会社がなければ出会えなかった大切な人もいくつかできた。やりがいもある。
けれど、今の自分は生活の全てがインターンになってしまっている。会社に依存する生き方をやめたい。これは会社の問題ではなく、自分の問題なのは明確だ。
何者でもない、経験が少ない、見てきた景色が少ない自分だから、周りのできごとに翻弄されやすい。騙されやすいし、染まりやすい。それでも同年代の他の人に比べればマシな方だと思う。
同年代の人よりは、人間の汚さを幾度となく見せられてきたし、泥水を吸わされた時間が長かったように思う。それに比べれば今は、かなり平和な暮らしになった。
比較する対象が自立した大人だと、何者でもない自分と葛藤する時間が増える。
同年代に囲まれていたら何者でもないもの同士、楽しく酒でも交わせていたかもしれない。それも良かったかもしれない。惰性で大学生を続けて、惰性で社会に出て、なんとなく周囲に染まろうともできたかもしれない。
でも19歳の私はそうじゃない道を選んだ。
それでよかった。
いや、それで良かったと思える道を、20歳の私が切り拓いていかなければいけない。
21歳の私はさらに突き進んでいてほしいし、22歳の私には高みを目指してほしい。
この前出会った人に
「すずなみたいな人が生きやすい世の中にしたい。」
と言われた。「すずなみたいな人」が何を指すのかを問うと
「社会への違和感に素直で、甘え下手な人。」
と言われた。
理解するには時間がかかりそうだけど、私も私みたいな人が生きやすい世の中になってほしい。
幸運なことに私は環境に恵まれているから、とても生きやすい。でもそうじゃない人も居ると思う。
日々いろんなものに揉まれながらなんとか前に進もうと必死に過ごしている。
今日だって納期ギリギリの記事を必死に書き進めていたらあっという間に日が暮れた。
私はまだ何者でもないし、何者にでもなれる。
何がやりたいかなんてどうだっていい。
どう在りたいか。
見返りなんて求めずに、わずかな報いをそっと抱ける人に。
14歳のときに「20歳で全て終わりにする」と決意してから6年。
17歳のときも、19歳のときも、揺らがなかった。
けれど、20歳の誕生日を迎えて初めて、「ようやくスタートラインに立てた」と感じた。
そして今、数年後に在りたい姿を思い描けるようになった。
絶望だらけだった10代の頃の自分が、少しずつ報われていく。
学歴を捨て、過去の栄光を捨て、モノを捨て、人間関係もいくつか捨てた。
残ったモノは背負えるだけの荷物と、日々増えていく大切な人たち。
今後も減らして、減らして、減らしていくのかもしれない。
久しぶりに会った大人が言っていた。
「いろんなことを諦めてきた。諦めて、諦めて、諦めた先に本当に諦めたくないものが見えるのだと思う。それは光り輝いていて、そんなものを俺は探している。」
感情が揺さぶられた7月だった。
溢れる感情と言葉たちが腐らぬよう、きちんと書き残しておきたい。
物事において「良いか悪いか」ではなく、「どのように良いか」を考えられる大人になりたい。
20歳の自分ももう折り返し地点。21歳に良いバトンが渡せるよう、必死に突き進んでいく。
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