バランスを崩してはならない 『悪は存在しない』(ネタバレ)
悪は存在しない
映画が始まり、画面に映るのは森の木々。
この木々を見上げるようなショットが長く続く。これは時折挿入され、ラストもこのショットでこの物語は幕を閉じる。
そして何より、今作が制作されるきっかけにもなった石橋英子の音楽が印象的に響く。
テンポよくEVIL DOES NOT EXISTのタイトルが表示されるが、ここの文字の出し方、青と赤の使い方はジャン=リュック・ゴダール風。
今作は青と赤が象徴的な色となっている。
おもに青が水挽町の人々(=自然側)で、巧や花の服、水のイメージ。
赤が外からやってくる人々(=都会側)で、高橋の服、懸念していた山火事のイメージ。
しかし、今作は単に都会vs田舎という対立を描き、都会の人の冷たさや田舎の人の温かみを描いているわけではない。
どちらかといえばこれを観る多くの観客は、自らの社会生活を振り返って芸能事務所の二人、高橋と黛に感情移入する部分もあるだろう。
序盤では「敵」「悪」として登場するこの二人のキャラクター造形、描き方の深みが今作をより豊かにしている。
二人が会社の無茶ぶりで水挽町に再度車で向かう際、濱口竜介作品らしい会話劇が繰り広げられる。
ああいう、ちょっとした仕事時間の隙間のような、商談や取材などメインの仕事の外にある移動時間にぽつりと漏れる本音、そこでの何気ない会話からその人の素を知るという経験は誰にでもあり得る。
特に高橋は一見軽薄そう、ガサツそうだが、悪い人ではないんだろうなという印象を、観ているうちにこちらがちゃんと受け取るのだ。
水挽町に住んでいる人々も、はるか昔からここに住んでいたわけではなく移住してきたのだと語る。
対立しているように見える都会と田舎の人々だが、彼らは決して遠い存在ではないはずだ。
「正面から向き合い、時間をかけて対話を重ねる」
世界中で溢れかえる様々な問題ごと。それを解決に近付ける手段がもしあるとするならば、これしかないのだろう(なので、人が必死に何かを訴えている時にマイクを切るなど文字通り言語道断なのだ)。
そして、正面から向き合い対話を重ねるということこそ、濱口作品でずっと描かれ続けてきたことだ。特に『偶然と想像』は、人物を正面から捉えた場面が印象に残っている。
他にも、観終わって時間が経ってからも何度も思い返してしまう今作の豊かな映像表現の数々。
だるまさんがころんだをやっている子供たちを水平方向にパンして撮った場面。何気ない遊びだが、観ているこちらはだるまさんがころんだをやっているということが分かるまで「え、どうしたの?」と不安すら覚える場面で面白い(M・ナイト・シャマランの『オールド』でも似たようなシーンがあった気がする)。
運転している車の中から後ろを撮る長回しも多様される。
先述もしたが、車の中で変わる関係性、車中の会話の重要性は濱口作品らしさだ。
雄大な自然は、時にあっけなく人間を裏切る。
いや、「裏切る」と言ったが、そもそもそこに信頼関係はあったのだろうか。人間は自然と通じ合っていたのだろうか。
彼方の過去から、自然を切り開いてその恩恵を受けてきた人間。
手負いの獣ほど恐ろしいものはない、といった会話の後でその答え合わせのように訪れるラスト。
もはや描かれているすべてが現実なのか、幻想なのかも分からない。
「バランスを崩してはいけない。」
その言葉が反復する。
高橋がとろうとした行動は、人間と自然のバランスを破壊することなのか。
「鹿は人間を襲わない、しかし、手負いの鹿は凶暴化する。」
巧がとった行動は、まるで鹿が乗り移ったようだ。
短時間の訪問で自然に魅せられ、彼らを、自然を理解した(気になった)高橋に、「本当の意味で自然とともにあるとはこういうことだぞ」とでも言うように。
巧だけは真に自然を理解し、一体となっているのかもしれない、でも、それも彼の、人間の欺瞞なのかもしれない。
ただ、あの場所に悪人は存在していなかった。
『悪は存在しない』というタイトルが、観終わると重く響く。
人間にはそれぞれ事情があり、一見嫌な人でも悪人はいないのだよという読み取りは単純すぎる気もする。
明らかに悪意をもって描かれるコンサル会社の人、事務所の社長?の存在は。それとも、「あの村には、あの森には」悪は存在しない、悪は立ち入ってはいないという意味か。
それとも、人間のみが悪意を持ちうる、自然にはない、という意味か。
いろいろな解釈ができるし、それが面白い。
劇中で反復される、帽子を脱ぐというアクション。
たとえば説明会で語り始めるときの巧が、ラストで鹿を目の前にした花が、帽子を脱ぐ。
これは相手への敬意、敵視はしていない、あなたと私は対等な立場であるという意味も込められているのだろうか。
こういった調子で、小規模でシンプルな物語ながらひとつひとつの台詞、アクション、撮影、音楽すべてが一度観ただけでは読み取れないほどの情報量にあふれている。
思わず笑ってしまうような軽妙な会話劇と、観る者に解釈を委ねる重厚で幻想的とも言える内容。
近作『偶然と想像』と『ドライブ・マイ・カー』を足したような、でも全く新しい、監督にとっての新境地のような、特別な一本だ。