小池百合子氏と『モダンガール論』

今回はどうってことない雑談です。

1週間前の日曜日は東京都知事選の投開票日だった。事前に予想されていた通り、小池百合子知事の圧勝だった。投票率は55・00%で、前回2016年の59・73%を4・73ポイントも下回った。コロナ禍で街頭演説会なども極端に少なかったからとはいえ、盛り上がりに欠けた選挙だったことは否めない。

今さらだが、私も今回の都知事選には積極的な関心を持てず、ツイッターなどで知人たちが「〇〇さんを支持します!」と次々に表明をしているのを見ても、「すごいな…」と思っているうちに終わってしまった。

その理由のひとつは、5月29日に発売された石井妙子氏の『女帝 小池百合子』(文藝春秋)を読んだことだ。これを読んで、「保守色の強い小池都知事を終わらせよう!」という気持ちが萎えてしまったのだ。

すでに20万部以上が売れているというこの本、「ホラー小説も真っ青の恐ろしさ。この都知事のもとで都民でいるのが怖くなった」といった感想が次々に寄せられているが、私はそんなことは全然感じなかった。本書の帯にある「救世主か?”怪物”か?」という煽情的な問いに答えるとすれば、「どっちもでもない。身ひとつで男社会を生き抜いてきた女性」という感じか。

説明がむずかしいが、これは決して小池氏を評価しているという意味ではない。そもそも私は、小池百合子氏の政治家としての振る舞いにはほとんど共感するところがない。それは今も同じだ。

中でもとくに「ひどい」と感じているのが、2017年9月25日、都知事を務めながら新党「希望の党」を結成し、最初は「原発ゼロで安倍政権打倒」などと言って代表に就任したのに、次第にトーンが変わり、9月29日の記者会見ではジャーナリストの横田一氏の「民進党(当時)のリベラル派議員は公認しないという話もあるが」という質問に答え、「『排除されない』ということはございませんで、排除いたします」と平然と言ってのけた。それから「希望の党」の構想がどうボロボロになっていったかは、説明の必要もないだろう。

さらに、許せないのは、関東大震災のあとデマに煽動された人たちに虐殺された朝鮮人犠牲者らを追悼する式典に、小池百合子都知事は3年連続で追悼文の送付を見送っていることだ。さらには今年は、式のための公園使用許可さえ出していない。いろいろ言い訳をしているが、根っこには排外思想があるんじゃないの、と言いたくなる。

そのように小池都知事に批判的な私は、それなりの期待感を持って『女帝 小池百合子』を読んだ。「やっぱり小池氏はヒドいな」と確認して都知事選を迎えたかったのかもしれない。

しかし、読んで拍子抜けした。そこからわかったのは、世襲の政治家ではない小池氏には親から譲り受けた地盤も人脈もさらにはカネもあるわけではなく、すべてを「自分の腕ひとつ」でつかみ取ってきた、ということだった。しかも、どうも小池氏には蓄財やぜいたくな暮らしへの執着がそれほどなく、ほしいのはただ地位と権力らしかった。ミニスカートを愛用して記者や男性政治家の目を奪ってきたようだが、それも単にチヤホヤされたいというより、注目されて有利な状況に自分を置きたいからなのだ。

2000年にマガジンハウスから文芸評論家の斎藤美奈子氏の『モダンガール論』という本が出版された。女性の生き方の歴史を、「欲望の変遷」という軸をもうけて語った快作だ。その後、文春文庫になったが、あえて単行本版の画像を貼っておこう。

サブタイトルは、「女の子には出世の道が二つある」。「二つの道」とは何か、というのは書籍の説明を見ればすぐわかる。

「社長になるか社長夫人になるか。それが問題だ。お祖母ちゃんもお母さんもお姉さんも、みんな同じ夢を抱えてきた。そして今、あなたは?“欲望史観”で読む女の子の百年。」

つまり、「社長夫人になる」というのも、女性にとっては社会で公認された“出世の道”ということだ。

ただ、私自身には昔からそういう発想がまったくなかった。年齢的には“昭和の申し子”みたいな世代なのになぜだろう、と不思議にすら思うが、おそらく両親の影響とか北海道育ちで親戚のしがらみがほとんどないとか、そういう理由なのだろう。ここではこれ以上、深堀りするのはやめておく。

もちろん同級生などには「社長夫人」的な人もおり、いっしょにごはんや小旅行に行ったりもするのだが、それでも心の底からわかり合えているかといえばあやしい。私は別に「社長夫人」はよくない、と言いたいわけではなく、単にそうなりたい、そうなれてよかった、と思えるということが理解できないのだ。「ひがんでるんでしょう」と言われれば返す言葉もないのだが、これは正直な気持ちだ。

自分のような人間が多数派ではないことはよくわかっているのでふだんは黙っているが、あるとき友人から、「白金に引っ越したら本当にシロガネーゼと呼ばれる女性たちがいることに驚いた。地元で知り合いになった専業主婦からわたされた名刺の肩書きが、『〇〇商事国際××部長夫人』となってた」と聴かされたときは、思わず「なにそれ!信じられない!」と言ってしまった。

一方で、逆の経験もある。「心のケア」のボランティアの現場で気持ちよく仕事をこなす女性と帰りに駅まで歩きながら話していて、実は彼女の夫は高名な医学部の教授だとわかったのだ。こちらが思わず緊張して「ご、ご主人、いや、せ、先生のことは尊敬してるんです。よろしくお伝えください」などと言うと、「アハハ、急にそんな口調やめて。ダンナが偉いのかどうかは知らないけど、私は私」と笑いながら返され、「えらい!」と背中を叩きたくなった。

自分の思い出話が長くなってしまったが、『女帝』によると小池百合子氏は権力を持つ男性経営者や政治家に接近して自分もポジションを得ようとすることはあっても、「だれだれの彼女」「だれだれの妻」と男性の威を借りて自分を大きく見せようとしたことはないようだ。しかも、山師的な父親に一家は振り回され、これといった後ろ盾もない。「カイロ大学首席卒業」という経歴が詐称だとネットなどでは大騒ぎになったが、私はそもそも1971年に若干19歳で単身カイロにわたる、という発想や行動力に驚いた。一浪してようやく入った大学になじめず、「あと何回休めるか」と自作の出席表を毎日にらんでいた私の19歳の日々とはえらい違いだ。

そうやってとにかく上へ上へ、前へ前へと進んできた小池氏は、46歳のときに子宮筋腫のため手術を受ける。そこで小池氏は病室にメディアを入れて取材を受けたのだそうだが、『女帝』の著者は、この病気の公表は「自らを病ゆえに子どもを持つという最大の夢を持てなかった女だと定義づけし、主婦層への接近を試みた」ものだという。その理由は、当時の小池氏が次のような状況にあったからだとする。同書から引用しよう。

「美しさや若さや独身であることが一時期はプラスに働いたとしても、ある時期からはマイナスとなる。独身でいると男性を渡り歩いているといった悪い噂をたてられやすい。それを打ち消すには、結婚するか、女としての魅力を完全に封殺するよりない。だが、容姿を売り物にしてきた彼女にはそれはできない。」

そこで得た病を「主婦層への接近」を図るための手段とした、ということなのだろう。

私はここを読んでがっくり気落ちした。「社長夫人」ではなく「社長」と目指し、多忙さなどから独身のままでいる女性は、「悪い噂」をたてられるのか。そして、それを打ち消すために「女としての魅力を完全に封殺」し、著者が主婦層に好かれる独身女性の例としてあげる土井たか子氏のように「地味な社会派の闘士」になるしかないのか…。

もちろんこれは20年も前の話であるが、十代でエジプトに単身飛び出して社会の荒波を乗り越えてきた女性が、四十代半ばをすぎると独身だからと「悪い噂」をたてられるだなんて、あまりに悲しい話ではないか。そして、なんとかしようとして婦人科系の病気になった自分をさらさなければならなくなったのだとしたら、それは狡猾とか打算的というより、あまりに痛々しい話である。

実はこういう展開はこの箇所に限ったことではない。私は同書を読み終わる頃には、「女性が社長(政治家なら総理大臣)を目指すのは間違いなのか。小池百合子氏はこうして”女帝”とか“怪物”といわれ、安倍昭恵氏は、いろいろ言われながらも社長令嬢であり総理夫人であり立場を最大限に利用して、楽しそうに生きている…」と心の中を冷たい風が吹き抜ける感覚を味わっていた。そして、来たるべき都知事選で小池都政を終わらせるぞ!、という熱意もすっかり失ってしまったのである。

私がちょっと意外だったのは、「女性たちよ、社長夫人ではなく社長を目指そう!」と呼びかけてきたはずの経済評論家・勝間和代さんが、どうやら同書を肯定的に評価しているらしい、と知ったことだ。勝間さんはこうツイートしている。

このツイートには「良い」「悪い」は書かれていないので、「投票権のある人は読んで判断して」というのは「読んで小池さんに投票をするのもあり」という意味にもとれる。しかし、勝間さんは小池氏に「違和感」と感じていたというのだから、そうではないのだろう。個人的には勝間さんには、「努力だけで成長を続け、ほしいものを手に入れてきた小池さんを評価します。ただ、この点とこの点はもっと効率的にできたはずです。私ならこういう戦略を取ります」とツッコミを入れてもらいたかったが、それは身勝手というものだろう。

そういう私の気落ちを笑い飛ばすかのように、小池氏は350万票を超える得票で圧勝した。毎日新聞は6月に「都知事選にも影響か」と報じたが、影響はこれっぽっちもなかったのだ。

『女帝』の著者は、「彼女は、『敵』を作り出して攻撃し、『敵』への憎悪を人々の中にも植えつけ、その憎悪のパワーを利用して自分の支持へとつなげていくという手法」を用いる、「虚栄心に捕らわれ、その虚栄心ゆえに危険な演技者」だとしている。本当にそうなのか。安倍昭恵氏のように余りある後ろ盾があって何の憂いもなくやりたいことをやる女性は「天然」「無邪気」と大目に見られ、小池氏のようにすべてを自分でまかなわなければならない女性は、攻撃的とか虚栄心の虜などと糾弾される。なんだか暗い気持ちだけが残った都知事選だったが、投開票日の前日の土曜日、渋谷でスーパークレイジー君こと西本誠氏の最終街頭演説に若い人たちが鈴なりになっているのを見たのが、一服の清涼剤となった。

「若い方がこれで選挙に興味を持ってくれたとしたら、その点では自分もほかの候補者に負けてないんじゃないか」と語るスーパークレイジー君。投票権のない高校生ばっかり見に来るけど、10年後、20年後にその人たちが政治を考えるきっかけを与えられたら、と話すあたりの動画を貼っておきます。彼についてはそのうちまた書くかも(だいぶ先に)。