1944年、沖縄愛楽園の「Stay Home」
東京都は、今年の大型連休いわゆるゴールデンウィークを「いのちを守る STAY HOME 週間」と名づけ、都民にいっそうの外出自粛を呼びかけると発表した。在宅を楽しむための動画などもいろいろ準備して配信してくれるという。
新型コロナウイルス感染症はいまや感染経路を追えない市中感染の段階に入り、それを防ぐには「ウイルスの乗り物」である人間が動かないことしか方策がない。そのためには、今や世界の合言葉になっている「Stay Home」を「おうちにいてもいいよ」で「家から出ないでください」と強い意味で受け取り、ひたすら外出をガマンするしかないのだ。
しかし、問題は先が見えないことだ。5月6日までの大型連休を「Stay Home」していれば、そのあとは晴れて外に出て、友だちに会ったりスポーツに汗を流したり、映画や舞台を楽しんだり、ボランティア活動に参加したりできるのか。それは誰にもわからない。それどころか、海外からは「外出自粛は1年は続く」「いやもっと」といった不吉な予測も聞こえてくる。
もしそうなったとき、私たちは「Stay Home」し続けることができるのだろうか。テレワークで仕事には支障がないという人もいるかもしれないが、自分の手がけたプロジェクトの成果をこの目で確かめることができない、といった状況で、これまでのような手ごたえ、達成感を感じることはできるだろうか。
仕事だけではない。いま東京都だけではなく、世界のアーティストや企業が「Stay Home」のためのさまざまなコンテンツを無料で公開、配信してくれている。スマホやタブレットを手に、好きなミュージカルやスポーツの名試合をつぎつぎ見ているだけでたしかに時間は消費できる。しかし、受け手としてひたすらコンテンツを見続けるのには限界があるはずだ。もちろん、中には家族でのコーラスや料理のコツなどを動画で披露し、コンテンツの送り手になる人たちも大勢いる。ただ、大多数の人は「何か発信したいけどひとに見せられるほど得意なこともないし…」と思っているのではないか。私もそのひとりだ。
「何もしないで家にいる」のはとてもむずかしい。「やることがないからむずかしい」のではなくて、「外に出ずひとに会わない状況で、自分の価値、意味、必要性、誇りなどを保ち続けるのがむずかしい」のだ。
話は変わるが、今回の「Stay Home」で思い出したことがある。
2016年、私は沖縄県名護市にあるハンセン病の国立療養所、沖縄愛楽園を訪れた。名護市から橋で結ばれた屋我地(やがじ)島にあるこの施設では、いまも100名を超える元ハンセン病患者が生活している。愛楽園ができたのは昭和13年で、ここも否応なく第二次世界大戦に巻き込まれていく。敷地内の愛楽園交流会館には当時の記録などもいろいろ保存されている。ここから先はそれを見た記憶に基づいて書きたい。
沖縄戦の前年、約10万人の将兵が沖縄に配属されることになった。すると日本軍は在宅のハンセン病患者から兵士に病気がうつるのを警戒し、その後、昭和19年9月に「軍収容」と呼ばれる療養所への強制収容が行われることになった。その結果、定員450人の愛楽園に913人もの患者が隔離され、療養とは名ばかりの労働が強いられた。
「軍収容」が実施される直前、昭和19年6月から8月にかけては、本土の軍の要人が次々と愛楽園を訪れた。そして、すでに愛楽園にいた患者たちの前で、その後、「軍収容」の指揮を取った軍医・日戸修一は、次のような訓示を述べた。
「愛楽園に収容されているのは、『祖国浄化の戦士』になるということ。」
祖国浄化の戦士。
なぜ、日戸軍医はこんなことを言ったのだろう。沖縄本島の北部につながる小さな島に家族からも日常生活からも隔離されて閉じ込められている患者たちを、「君たちも立派な愛国者だ」と勇気づけようとしたのだろうか。「何もせずに隔離に耐えることも戦士としての戦いのひとつだ」と言われた患者たちは、人間の尊厳を根こそぎ奪われ、黙ってうつむくしかなかったのではないだろうか。
ハンセン病の原因となる「らい菌」は感染力が非常に弱く、患者からうつることはまずない。それにもかかわらず、強制隔離という差別的で人権蹂躙を伴う行為にあたり、「君たちも戦士なのだ」とまやかしの「使命」を与え、文句を言わずに耐えるように仕向けたのは、巧妙かつ卑怯なやり方としか言いようがない。
…話がだいぶそれた。私はここで、いまの「Stay Home」を当時のハンセン病隔離政策にたとえて批判するつもりはまったくない。むしろ医療従事者として新型コロナウイルスの感染力を目の当たりにする機会もある中で、多くの人に「どうか外出をしないで」と呼びかけたいと思う側である。
しかし、忘れてはならないことがある。「Stay Home」は時として人間の尊厳を奪い、誇り、自信、自分の価値を削り取っていく危険性もあるのだ。「愉快な動画をたくさん見せておけば、みんな楽しく家にいられるだろう」といった考えがもしリーダーたちにあるのであれば、それは絶対に間違っている。
では、「Stay Home」しながらも、人びとが社会からのつながりを絶たれず、その中で自分が生きていて、ちゃんと生かされている、役に立っていると感じるためには、いったいどうすればいいのだろう。その策は残念ながら今の私にはない。でも、考えたいとは思っている。もしアイディアがある人は教えてください。