人に期待しない生き方
私は人に期待していない
例えば友人に「車運転して!」と言われても
「いいよ!」となる
それは友人が運転してくれるのを当たり前だと思っていないからで
何かあれば(なにもなくても)私が運転するよ、と思っているからだと考えていた
たとえ友人の運転したくない理由が「前日深夜まで他の友達と遊んで、朝早くからの私との予定は体力的にきついから」と正直に言われたとしても
「熱中症とかになったら困るし、寝てなよ」と思う
しかしどうやら他の人は
「自分との予定が先にあったのに、前日にそんな約束する方が悪い」とか
「シンプルに利用されてるだけで、都合のいい友達になってるよ」とか
そんな風に感じるらしい
以前にも似たようなことがあった
私が彼氏と別れた際
「以前のように時間がさけなくなってしまったから、付き合っていても優先度が下がっているように感じると思うし、申し訳ないから」という理由を話された
私は「優先度が下がるなら私よりも大事なものができたってことだし、別れを切り出されても引き留めるつもりは全くない」と考えていたため、あっさりOKを出した
その話を友人やら知り合いやらに話した際
「なんでそんなに簡単に受け止めちゃうの?」
「そんなのいいわけだからちゃんと理由聞かないと」と言われ
「みんなすごい怒ってる」=もしかして怒るべきポイントなのかも
と感じて
「みんなが怒ってるから私もちょっと怒りがわいてきた」と思った
でも本当のところは
言われた理由がすべてだし、きっと嘘もついてない
みんな怒ってるけど、彼がすべて悪いとも思えないから
きっとタイミングの問題だとおもうな~なんて
のんきなことを考えてました
なんかそんな風に
私は人に期待していない分、なにかあっても「そっか仕方ない」としか思わなくなっている
私もこんなことしてしまったし、私も悪かったなと思う
そんな「自分のことなのにどこか他人事」なところ、「私が悪かったかもと自分を責める」ところに、私の周りの大切な人たちが怒っていました。
「もっと自分を大切にしてほしい」と言われたけど
自分を大切にするってなんだろう。と思ったとき
「自分の大切な人がされていたら嫌だと思うことをされたら、怒る」なのかな、と考えました
私は、自分には何されてもいいけど、自分の大切な人がおざなりにされると怒ることはあります。
それと同じで、自分を友人や周りの大切な人に置き換えて、そんな人たちがされていたら私自身が怒ることをされたら、怒ったり断ったりすることで「自分を大切にできる」のかもしれないと、そう考えた
誰かを大切にできるくらい、自分を大切にできる大人になりたいと思えたできごとだった
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