犠牲の上に成り立つのは悪か
医師も、看護師も、心理士も、熟達するには経験という犠牲が必要とされる。
そうだとして、犠牲とそれを呼ぶかどうかは疑問だ。
新人看護師さんは点滴の針を入れるのが下手だ。上手くないし、何回刺しても難易度の高い私の血管に針が入ることは無い。
でも、5年目、10年目の看護師さん達は苦戦しながらも何とか入れる。
これは、経験によって技術も度胸もつくからだろうと思う。
患者としてはもちろん、1発で入れて欲しい。痛いから。だけど、10年目の人ばかりが刺す訳には行かない。それでは新人達は育たない。
だから、ルール(2回失敗で交代とかの)を定めて刺す。
2回失敗したら、最低でも3回刺されるわけだけど、その犠牲というか、経験は私は必要だと思うから黙っている。
私の疾患は稀少難病である。
治療法はない。対処療法がほとんどだ。
私は小学校1年生から現在まで年に数回外科治療を受けている。
この外科治療は北の地に行かねばならない。なぜなら技術を持つ人は一人しかいないから。
今までの治療の中で上手くいかなかったことは、正直ある。でも、別に訴えたりはしない。100%の治療などないとわかってるから。
私が治療を受けるようになった時、主治医は既に40半ば。私が治療を受ける前に、何度も失敗してきたのだろう。
それは、知っている。亡くなった人も、心停止により後遺症が残った人も知っている。
それだけリスクがあることであるというのを承知で受けている。
怖くないかと聞かれれば怖いに決まってる。
手術台に乗る瞬間、麻酔がかかる瞬間の恐怖は何十回経験しようが慣れるものでは無い。
でも、治療を受ける。
心理士もそうなのだろう。大学院で鍛錬を積むがそれでも心許なく、信用されないのかもしれない。
でも、安全な枠の中でクライエントと接することは必要だろうし、それが無ければ、未来の日本に心理職というものは無くなるだろう。
これはエゴかもしれない。いや、かもじゃなくてエゴなのだろう。
成長するためのある程度の犠牲は必要と思う。