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観劇ならぬ聴劇 #アイネ夏祭り

西荻窪 遊空間がざびぃにて、「目隠しをして聴く朗読劇」 アイネクライネ夏祭りを観劇しました。
いや、観劇ではなく聴劇と呼ぶべきなのか?

3つの短編
あらすじは記載ありませんでした(あれば追記します)


音に集中する空間

約20分ほどの短編3つ。コメディに全振りのもの、少しちゃぶ台返し的な要素のあるもの、しっとりとしたエモいもの。
どれもシンプルなもので、まさに音に集中してもらうためのように思いました。登場人物も主要な人は数人で分かりやすかったです。

普段メモ書きながら観劇するスタイルなので、細かく覚えきれていないこともあり、ご容赦ください。

1つ目の花火 阿鼻叫喚サマービーチ

これはコメディ。人物関係を探るとかではなく、どちらかというと普通の舞台では出来ない音の広がりを意識した作品の様でした。

リア充を倒すためのおもちゃの銃の効果音などは、多分観てしまうと舞台特有の「触れてはいけないアレ」になってしまうところ、耳だけなので実際はギャグ漫画のように本物さながらの銃を撃っているように感じられたのではないでしょうか。
また、1人何役もやられる場合にも、身体的特徴(今作ではヤクザの刺青)も補完できますね。

ただ、初っ端ということもあって、体感あっという間に終わってしまったのと、若干端役の方もメインなのかな?と勘違いして把握するまでに時間がかかってしまったというのが反省でした。

2つ目の花火 肝試しの夜

ご縁があった音井彩花さんメイン回。
肝試しをしている男女2人ですが、肝試し中に不思議なことが起こる。
ここでのポイントは2人の関係性を悟られないこと。
結論、この2人は双子なのですが「2人で肝試し」というシチュエーションは恋人や幼なじみを連想させるミスリードをしたい。なので会話の調子だけで関係性に説得力をつけなければならないから大変です。
ミスリードを意識しすぎて恋人っぽい感じや、「幼なじみだけど恋愛感情を出し始めている」のようなことはやってはダメ。でも、実際は昏睡状態の頭の中の話だから、相手が何者かも分からない(という設定)なので、下手をすると「恋する人の演技が上手くないのかな?」ともなりかねない。かと言っておべっかで「恋人みたいだった」とも言えないですから。めちゃくちゃ難しい。
視覚があれば、手を使わない、視点が相手を向いてないなどで補完出来ますが。。。
今回の三部作の中では唯一相手との関係にミスリードがはたらくので非常に難度の高い役に感じました。

また、この回は2つほど演出で「おお!」というものがありました。(後述)

3つ目の花火 ボクラヒマワリ

語り手の幼少期の思い出。こちらもやや不思議な世界観でした。
ぼくのなつやすみのように、親戚の家に泊まる。その時に出会った年上の少女との奇妙な関係性。
身体の同じ場所に、ひまわりのような痣がある。という繋がりに行くまでに、地味に1つ伏線のようなものがあって
少年と年頃の少女という関係にして、川遊びのシーンで自然と少年だけ痣が見つかる。少女は分からないという自然な流れでした。これ、作り方が下手だったら適当に性別決めちゃうのかもね。

そして、ここでの一番のハイライトは向日葵畑を駆け抜けるシーン。狭いかざびぃを駆け抜けて過呼吸寸前の演技をされていた望月みなもさんは凄かったです。ひまわり畑が見えました。

そしてここでの「おお!」というポイントもあり。これはオシャレで美しい終わり方でした。

目隠しをする意味とは

個人的に、このギミックに惹かれたことは大きかった。あとは近くだったり、時間的にも行きやすいことも理由でした。
もちろん、ただの朗読劇を目隠しするだけだったらダメです。実際そうだったら感想は辛辣に書いてやろうくらいの気持ちでした。

ですが、今回「おお!」というポイントが3つありました。
1つ目は、3Dで感じるような音
座席はバラけており、中央を囲うように配置されていました。これが意味するのは、(多分)あちこち歩き回り、走り回ることで前後左右から声がするという環境を作ったこと。また個人的には、自分の頭よりも上から肉声が聞こえる舞台というのもないので、ここは新鮮でした。
多分これは普通の座席据付けの劇場や広い劇場では出来なかったことでしょう。
映画の4Dあたりはヒントだったのかな?

2つ目は、「消える」「現れる」
舞台はどうしてもご都合主義で「見えてるけど見えない」とか「見えないけど見えてる」のような部分が発生します。
前述のおもちゃの銃だって、実際の舞台では撃つ真似、撃たれた真似ですからね。それを良い意味でリアルに近づけるのは目隠しならではでしょうか。
また、双子の兄のよういちが消えてしまったというところも、普通だとはけてたり、見えてるけど見えない演技をしたりという補正をかけなければいけませんが、見えないので本当に消える感覚がありました。多分これは狙ったんじゃないかなーと勝手に推察
「演劇だから仕方ないよね」と黙殺していた部分を、ある種掘り出し逆手に取ったものではないでしょうか。

3つ目はボクラヒマワリのラスト。語り手が話す「瞼の裏に映る彼女の泣き顔」は、まさに我々聴いている側とシンクロしていることを気づかせる一言。この一言で締めるのは非常にオシャレです。(これが1発目に出てくると頭でっかちになってしまいそう)

以上から、なぜ目隠しでやるのか。という答えがあったと私は感じました。

最適な時間はどれくらいだろう

本公演は約60分とかなり短い部類です。かといってお値段的には90分~100分の舞台が観れるくらいで特別お安いわけではない。
という情報だけだと、多分色々な意見が飛び交います。でも、仮に100分だったら間違いなく頭が疲れて来ると思います。(視覚を奪われる分脳がフル回転するので)
また視覚がない分、凝ったストーリーにすると消化不良になると思いますからシンプルでわかりやすく簡潔なストーリーになるというのもあるでしょう。
(正直、最初の二作は、人間関係の考察をするよえなストーリーではないし、ボクラヒマワリも与えられた情報から推察する程度)

なので、今回の60分というのは割と理にかなってるのかもしれません。各種割引もありますから、比較的来やすい部類かなーと思います。

合う合わないは出てくる

これは作品がどうこうというよりも、コンセプト自体が観劇スタイルに関わるものなので、もしかしたら合わない人も出るのかな?とも思いました。逆に、自分の観劇の仕方を見つめ直すきっかけにもなるかもしれないです(目隠しなのに見つめ直すとは)

当然ながら、表情などを観るのが好きという人には相性は悪いです。目隠しなしの割引もありますが、個人的にはこれは「あの演技はどうなっていたんだろう」という答え合わせをするためのある種リピート用だと思っていますので、初見で目隠しなしはちょっと楽しみ方変わりそうかなーと思います。

もちろん、今まで目からの情報が多かったという人が「音」に集中して観劇するという体験を出来るのは幅が広がるのではないでしょうか。そういった意味では、私は相性良い側かもしれません。

6年ほど前に、アルタシアターで観劇した舞台サトラレでは、作中に3Dメガネを付けるというギミックがありました。あんな感じで通常の演劇の中に混ぜることができれば、今回のような「音」を楽しませつつ、キャストのビジュアルや視覚的な演技も楽しめるんじゃないかなーと思いました。
まあ、前述の通り大きな劇場や座席が据付の劇場では難しいですが、どうにかできるプロデューサーがきっといるはずです(他力本願)

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