没個性から紐解く三十数年の自分史🪼
高校時代からの友人と話していて、自分って没個性なことが悩みなんだよね、て言ったら「そんなわけないよ」と一蹴してもらったのがとても気持ちよかった、という出来事があったのでnote書きたい欲が掻き立てられて(?)
ここに改めて三十数年分の生い立ちを振り返り、完全自分主観で自分史を書いてみようと思います。
マーケターの端くれではあるものの、マーケ要素のない自己満日記です。ご了承ください。
没個性を自覚している原因としては、全方位にバランスの取れた人間になりたいとこれまで努力して生きてきた過程があって、例えば進路やキャリアを選択するにあたっても、”いろんなことができる”、”いろんな選択肢を持つ”、”いろんな人と関わる”という選択基準・価値観がありました。
ペンタゴングラフで偏りのないコーンフレークの栄養のようなバランスのとれた人を理想としていたんだと思います。
でもそれが、”つかみどころのない人””飄々としている人”という周りからの評価があって、自分には個性がないんじゃないか、没個性なんだ、と悩みというか、自分はなかなか周りに理解されがたい人間なんじゃないか、人間味・温度感が伝わりにくいという感覚を、ここのところ感じる場面が何度かありました。
歴代の人事評価も要約すると、”控えめだけどチームになじんで文句言わずに仕事は淡々とやってるひと”のイメージのようです。
ポケモンで言うとメタモンなんだと思います。
本題に戻って・・・・・・自分史を振り返ると、6歳くらいからでいいのかな・・・・・・?
小学校時代
公立の学校+習い事5-6個掛け持ちで休みのない小学生だった。両親がスポ魂だったからか運動はそれほど苦手でもなく、比較的スポーツは球技・陸上・水泳・武道となんでもこなしていた。割と活発なタイプだったと思う。色が黒くて痩せ型だったので、親からは『ごぼう』のようだったと言われる。勉強もスポーツもできて当たり前、なプレッシャーを感じていた。
中学校時代
あまり楽しかった思い出がなく、高校に行くための通過点と思って勉強だけやればいいと思ってた。人間関係に悩み内向的になる。唯一、夏休みにアメリカにホームステイに行ったことだけが良い思い出で、海外や英語への興味関心はこの頃からだと思う。
高校時代
地方の進学校で国公立大学信仰が強い学校だったので、センター試験・国公立大学受験のために3年間勉強の日々だった。進路のつぶしが利くように文系を選択。不定期開催の文化部に入部していた。常に勉強しながら塾でも勉強してる子がクラスの約半数で、優秀な子達が多すぎる環境に少し絶望する。人と話したりするのはあまり得意ではなくて、内向的で自分からコミュニケーション取るタイプではなかったけど、数十年来続く貴重な友達ができる。進路はとりあえず、語学系の大学に進学して、留学をして、英語を使う仕事へ就くという、とにかく選択肢が広がる方向へ進もうとする。
大学時代
語学系大学に進学し、英語を専攻する。自由になるために一人暮らしを始める。留学のためのテストや授業に追われたので、サークルも徐々にフェードアウトし、約1年間アメリカに留学する。派遣のイベントバイトや大学事務などを経験して、帰国後の就職活動はあまり数多く活動せずに、航空業界へ内定が決まる。留学したおかげで少しずつ人との関わり方を覚え、コミュ力や自己表現することをひとより頑張らないとと自覚できた。人とコミュニケーションを取り、英語を活用できる仕事に就くことで、コンプレックスを克服したかったのもあったと思う。
新卒1社目(航空業界)
初めての空港勤務。チームや先輩・同期・後輩にも恵まれて、接客マナーや社会人の基礎的なことが学べて一社目に働けてよかったと思う。ちなみにOJTでの、先輩からの評価は「物怖じしないタイプ」。女性が多い職場で、面倒見のいい&気遣いができるひとばっかりだったので、とても働きやすかった。3年目に入ると一通りの業務を経験し、ルーティン業務やシフトで体力勝負な働き方、給与形態に長く続けられるか不安になり、このままでいいのかなと転職・海外インターンを考える。
転職2社目(PR業界)
ベンチャー系のPR会社に内定し、海外向けPRを担当する。出張も多く多忙ではあったけれど、やりがいをもって働いていた。営業職で初めてビジネスの基礎を学んだけれど、前職経験で人当たりの良さだったり対応力、語学は培ったので問題なく取り組めた。
まさか自分が東京に住んで働くなんて考えていなかったけど、業務内容的にも給与的にも東京で働くことでスキルアップができると思い、転勤も経験。働きすぎることもあったけど、その実績が今後の為になると考えて働いていた。大きなプロジェクトや海外出張もあって、この時の経験があるから大抵のことは乗り越えられる気がした。マネージャー陣がバリバリ仕事できるマンだったので、日々刺激を受けてとても成長できたと思う。ここでも人には恵まれていた。働き方に関してはこれまで体力と気合で乗り越えられてたものの、30代以降の働き方をコロナのタイミングで考えるようになり、転職。
そこでの上司からの評価は「飄々としてるけど、なんでも器用に納期までに仕上げるひと」、別の上司からは「タフなバランサー」だった。
転職3社目(広告業界)
恩人つてで紹介をしてもらい転職。営業職でプレッシャーを感じつつも、外資系の大手クライアントを担当させてもらう。ここでも歯止めなくひたすら働き続ける日々に、限界が来てしまう。。
プレッシャーからか、しっかりしてる姿を周りから求められて、期待にこたえないと!と必死になって疲弊して、心が疲れてしまいました。また、やろうとしてできない自分もストレスとなり、頑張るほどから回りの天中殺の時代。
※長くなるので、これは割愛して別にまとめます
無職(ボーナスタイム)
一度リセットするため、実家へ戻り半年ほど無職を経験する。挫折というか無の期間というか、小学生以来ずーっと忙しくしてきた気がしていて(大げさ)、この時期は本当に、将来のこと、仕事のこと、プライベートと全方位に悩んで、日々内省しまくっていたので何もしてなくても頭は忙しかった。リスクヘッジを取る性格なのは承知だけど、何かしらしないと不安、とずっと焦っていたかもしれない。
この時期に友人から言われてはっとした言葉が、「なんでそんなに優等生でいようとするの?」という、自分ではそんな意識なくても無意識的に、周りから何でも「できる人間」と思われたい、「不完全な自分」が許せない、という思考に陥っていたんだと思った。
転職4社目(マーケティング関係)
50社OVER応募して、悩んで、納得いくまで転職活動(就職活動?)したので、根っこから徹底的にやらないと気が済まないタイプみたい。
社会や周りからは必要とされたいけど、「できる人間」と思われたい!というほどまでは働きたくはない、という何とも絶妙な距離感で、うまくワークライフバランスを取りつつ働くことがしばらくの目標だと思う。
10代20代は、コンプレックスを克服しようとして少々無理しながらも、できることを増やす、選択肢を広げることにフォーカスしてきたので、なんでもしようとした結果、行きつく先が”メタモン”なんだなと思いました。
30代からは、できること・得意なこと・好きなことにフォーカスして、強みを伸ばす方向にシフトしていこうと思います。(森岡毅先生もおっしゃってたので)
何の話だって感じだけど、自分の守備範囲を線引きして固めていくことは、バレーボールで例えると、(ローテーションはするけど)ポジションがレフトだったら、後衛ではなくて前衛の練習しろ!ってことだと思います(多分)。
つまるところは、コーンフレークの栄養バランスは目指さなくて良くて、メタモンにもならなくていい、ってことだと思いました。終わり。