許可って無限にできる
この記事の追記だけど、こういう出来事によって自分の許せてない部分を知る機会だって分かった。
だから、私が自愛専門家って名乗る人にイライラするのは、イライラする自分を許す為に存在してて、自分に許可出来たら気にならなくなる。
実際にイライラしてもいいって思ったら自愛専門家とかどうでもよくなった。
もう何でイライラしてたのか忘れた。
これが面白いんだよね。
感情って内から湧いてくる感じだけど、それも自然に湧かなくなる。
今あるとしたら、胸のしこりが良性か悪性かどうかの検査結果待ちをしてて、旦那がずっと不安で精神的にやられてるらしいから、それはどういう事象なんだろ。
旦那に心配させてもいいし、不安にさせてもいいって感じかな。
私自身、どうにでもなれって思ってるけど、そう思えてない自分でもいいって感じかな。
私も不安に思ってもいいし、不安に思わなくてもいい。
良性でもいいし、良性じゃなくてもいい。
良性じゃなきゃいけないのは何故か?
それは命に関わるから?
⚪︎んでもいいし、⚪︎ななくてもいい。
そもそも生きてないから。
結局ここに行き着く。
だから不安になっても「いやそもそも⚪︎なないんだった」ってなるから、安心しちゃう。
あ、今ふと思ったけど、こういう事象があるからこそ健康の喜びとかを感じられるのかな。旦那が優しかったり。
でも、それって条件付きだから、こういう事象がなくても健康の喜びとか旦那に優しくされたりするのは当たり前だよな。
職場の人に大切に接してもらいたくて望んだのかな。
だとしたら、職場でも無条件に大切に接してもらうのが当たり前だよな。
病気じゃなくても遠慮せずに休んだり、無理しなくてもいいんだよな。
これに気づく為だったのかなって決めるのも自分。
もう文章にするのも馬鹿馬鹿しい。
結局どこまでも許せるんだから。