受容と諦めと「真ん中」
深夜2時、親知らずの痛みはおさまってきたものの、その違和感と恐怖を拭い去ることはできず、つらつらと文章を書こうと寝返りを打った。親知らずを抜いた時、痛いと思う人、思わない人。抜いたあと、生きづれえと思う人、思わない人。十人いれば十種類の痛さがあって、生き辛さがある。よく聞くやつね。十人いれば十種類のなんちゃらがある、だから自分を大事にすればいいんだよ、みたいなしょうもない自己啓発本みたいな、そんなことは生きてく上で意外と重要じゃないと思う。その十種類のどこを自分の世界の真ん中にして生きていくか、そしてその真ん中が社会の真ん中とどれだけずれているか、そのずれをどこまで受容するか、が割と重要。まあその真ん中を決める社会も自分を取り囲む周りの環境で変化するのだけれど。
ここからは自分の話を交えて説明していく。例えば、私はまあ割と田舎に育って、こんなに頭のいい人はいなくて(失礼)、20前半で結婚して子供産むのが所謂「真ん中」とされる社会に育った。子どもの頃から、みんなが言う真ん中に違和感を覚えて、それをどうこう言ったら「変な子や」と言われて、それを唯一「それで良いんやで」と話を聞いてくれる祖母はしっかり焼かれてしまって、この年齢になって周りがばちばち結婚しだして、(他人の)幸せ幸せ幸せが蔓延している空気を背負っている。人の価値観なんてものは変わるから、完全にそうとは言えないけれど、今のところ私は全く恋人が欲しいと思わないし、結婚したいとも思わないし、子育てなんて幸せは自分の人生の幸せのピースにハマらないなと思う。でも、それが「真ん中」だとされる社会に生きる街の人たちは、こんな私を「はずれもの」で「不幸せ」だとみなす。私自身も、その街の要素は入っているからどこかで自分を「不幸せ」だと思ってるかもしれない(そこまで考えるとしんどいのでやめる)。親は「みくの幸せなように生きれば良いよ」とは言うけど、小さい子どもを見たら「可愛いなぁもしあんな孫いたら可愛がるのになぁ」とか言うし、友達に関しては、会話する時、「結婚したい」ことを前提として話してくるし、だからもう反論するのも頑張るのもやめて、わかるー星人になることにした。そしたら、ちょっと心が軽くなったんだけど、ここで一つ問題発生。私が私の「真ん中」を選んでしまうと、他人の「真ん中」に歪みが生じることに気づいた。もっと砕いて言うと、私が結婚しないという幸せを選ぶと、親の幸せはひとつ減る、みたいなそういうこと。「自分の人生なんだから自分の好きなように生きろ」とか「You Only Live Once」とかそういうかっこいい格言みたいなもよはバカほど聞いてきたけど、それだけじゃうまくいかないのが人生やろうがよぉ、とかキレてしまって弁慶ぶつけて青たんこんにちはって感じ。
要するに、どこかで自分の能力とか考えとか価値観とか行動力とか、まあまとめて言えばできることと、そこから生まれる周りへの歪み/影響に対して、受容に近い諦めを身につけなければいけないなと思う。それが一番初めに言った「真ん中」の話。自分の「真ん中」は自分自身で決められるけれど、他人の「真ん中」をこちらが無理矢理決めることはできないから、真ん中同士のぶつかり合いが生まれる歪みをどこまで受容するか、みたいなところ。本当に地元の賢くなくて結婚して親に孫の顔を見せた人間が羨ましいなと思う、それと同時に、「子ども作らないなんてありえない」みたいなことを言ってきたあいつがもし不妊だったら、「孫の顔を見せてね」って意気揚々と言ってたあの〇〇ちゃんママは、その友達が不妊だったら、どうやって励まして、どうやって気持ちを切り替えて、どうやって生きていくんだろうとも思う。発言する時は自分の価値観や環境が変わることを考えながら、発言しないといけないし、価値観が変わったことで人を傷つけてはいけないよな、とは思うんだけど。そんな事は言わずに「わかるー」とだけ言うことなかれ星人になってしまった。
ところで私は「変わってるね」という言葉がかなりトラウマだ。物心ついた時から、数え切れないくらい言われてたような気がするその言葉は固まってないセメントの上に踏まれた足跡と同じで、消えない。未だに何かの話をしていて「変わってるね」と言われたら、話すのをやめて笑って済ませてしまうし、そう言われないように努力している節がある。そんな消えない足跡をつけた奴らは全く気づいてないのも悔しいが、それはまあいい(全然良くないが話が逸れるので)てか、他人の好きなもの/こと/価値観に対して「変わってるね」の一言で済ませるやつまじで烏滸がましくね?って今なら思うけど、当時はそんなことも思わず、傷つけられてることにも気づかず、傷ついてたんだな。だから、私は「変わってるね」って言ってこない人を自然と好きになる。好きになるって言うか寄っていってしまう。まあそれも別に良いんだけど。
それぞれの「真ん中」があるって話はしたけれど、意外と世間的な「真ん中」ってあって、しかもそれに気づくのって所謂「変わってるね」って言われ慣れた人間たちで、不公平すぎない?って感じです。まあみんな「真ん中」からそれないように頑張って生きてるんだろうけど。別にここで言いたいのは、世間的な「真ん中」がある限り、ダイバーシティなんて実現されねえって話じゃなくて。きっと今の状態の世の中で大事なのはそれぞれの「真ん中」を理解し合うことじゃ無いってことよ。自分の「真ん中」に従って生きることで生まれるどんな状況も受容できるくらいの「真ん中」に対する諦めが必要じゃない?ってこと。意外とこれに気づくのに20年ちょいかかっちゃったから、残しとこ。
追記:ちょっと飛んだ話として、他人の「真ん中」を超認めない奴がいじめとかするのかなって思ったり。私自身いじめと名のつくものに対する拒否反応はすごくて、まあ中学時代バチバチにいじめられた時期があって、カナダ留学時代バチバチにアジア人差別を受けた時期があって、中学時代は毎週火曜夜10時からのリンカーンで、カナダ時代はyoutubeにあがってるガキ使のトーク集で救われてきたんだけど。だから少々の悪口に傷つけられる事はないけど、当時の傷は疼くよなって感じ。この言い方カッコいい。だから、他人の顔色とか考えてることとかを読み取る能力?が無駄についてしまってそれもまた私の「真ん中」を世間一般の「真ん中」からずらした理由ではあるんだけど。ああ話飛んだな。とりあえず「真ん中」の壁撤廃条約なんてものは人の心が関わることだから一生起きないし、理解する必要もないけど、認めない「真ん中」をいじめるのだけはやめようよって話、だから友人たちよ、「結婚する」を前提にお話進めるのやめて。
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