【三国志の話】三国志学会 第十九回大会(後編)
前回に続き、9月8日に聴講した内容のご紹介です。前編も合わせて、どうぞお楽しみください!
何晏『論語集解』と『周易』
東京大学特任研究員 伊藤涼
先行研究では、何晏が『周易』を重視することが指摘されてきた。
本研究では、何晏自らの注だけでなく、他者の『論語集解』(以下、『集解』)の注からも見えることを示す。
周易とは
(筆者)いきなり周易のことがよく分からないので、調べてみました。
占いを易というように、占術に関する書のようです。孔子が書いたとか、一部加筆したと言われているが、根拠はあやしい。
「怪力乱神を語らず」で知られるように、孔子は神秘的なものは嫌いだったはず。
上記のWikipediaによると、どうやら後世の儒家たちが神秘性を強化したようです。
論語集解の考察
『論語』本文に孔子の言葉として「五十にして以て易を学べば・・・」と書いてあるが、そこには誤解がある。
最古の『論語』写本では「易」ではなく「亦」である。孔子が「易」を学んだとは考えられない。
しかし何晏ら『集解』の著者たちは、『論語』為政の「五十にして天命を知る」を「孔子が周易を読んだから」と解釈するなど、孔子が周易を重視したと考えている。
何晏の自注でも、周易から引用した箇所が10個もある。
何晏以外にも、王粛などは、周易を意図的に重視して注をつけている可能性が高い。
また、彼らが先行する学説を参考とする際にも、例えば『論語』鄭玄注など周易を引用しないものは採用せずに、周易を引用するものを選んで採用している。
具体的な注釈の内容、道と聖人
『集解』では、周易の「道」の概念(天道が世界の基礎である)で、論語を解釈している。
そして、孔子が言う聖人についても、周易の概念を適用している。
具体的には、聖人が現れるには条件があり、例として「孔子や顔回が冷遇されたのは、時代が悪かった」という解釈をする。
質疑応答
Q. (筆者)後漢末の鄭玄が周易を重視せず、魏の何晏たちが周易を重視したのは、何か時代性とか政治的な環境要因があるのか?
A. 何晏が周易を重視したことは、新しい思想潮流だと思っている。玄学と呼ばれる、儒教から離れた思想が出てきた。
老荘思想で儒教を補強する、比較的保守的な思想だったのではないか。
漢の儒教で行き詰ったので、老荘思想を取り入れたのではないか。
という、思想潮流の変化を研究している。
Q. 資料8や資料9は聖人、資料10は君子、資料11は賢人だが、その全てを聖人と解釈した理由は?
A. 道に合致した人物として、聖人と同等として資料10、11の例を挙げた。
何晏の思想の体系的なものは周易の道だったのではないか。
感想
儒教の経典をどう解釈するかには興味ないのですが、三国時代の名士の教養の中身として重要だということは理解できます。
曹操は名士の力を削ぐために(道教など)他の宗教を許容したので、魏という国は儒教一辺倒ではない。
という認識の中で、筆者の質問は「後漢と魏での儒教の違いについての伊藤氏の見解を訊いた」という意図です。
余談ですが、上記の筆者の質問時に「事件」がありました。
当日副会長の渡邉義浩先生は途中参加で、伊藤氏の発表のときは会場に到着したばかりだったらしく、入口付近で聴いていたらしい。
筆者が質問のため挙手すると、たまたまマイクを持ったスタッフが近くにいたようで、先生がマイクを筆者の席まで運んで渡してくれたのです。
現地でも言いましたが、改めて。渡邉先生、ありがとうございます。恐縮です!
曹植の閨怨詩に見る兄曹丕への思い
県立広島大学 柳川順子
はじめに、渡邉先生から柳川先生の紹介がありました。
曹丕・曹植に対する研究で知られ、今回の話は六朝学会でも発表していた内容とのことです。
閨怨詩について
閨怨詩とは、女性に成り代わって、夫と離れた悲しみを謳うもの。
文学(文字で書く作品)ではなく文芸(宴席で行われる即興)の主要ジャンル。
黄初年間の閨怨詩
黄初は建安のあとの年号で、そのころの閨怨詩では、曹植は兄弟の離散を詠じている。
昔は親しかったが、距離が開いてしまったことを嘆いている。
例えば、「今為商与参」という句がある。「商」とはさそり座のアンタレスを中心とした三星で、「参」はオリオン座の三ツ星のこと。
(筆者)ギリシャ神話にもありますが、夏に見えるさそり座と冬に見えるオリオン座という組み合わせで、同じ空に現れないことを表現しています。
浮萍(ふひょう)は浮草の意味で、王朝と密に関係するキーワード。曹丕・何晏もこの表現を使っている。
強い者への従属と、そこから切り離されて流浪する、どちらにも当てはまる。
雑詩六種は、夫の帰りを待つ妻になぞらえて、呉へ親征した曹丕への想いを詠じたもの。
黄初四年に呉への出兵を希望しながら認められない心情は、同年成立の責躬詩で遠征した曹丕に会いたいとした内容との共通点がある。
建安年間の閨怨詩
七哀詩では、曹丕を清い道に舞い上がる「塵」、曹植を濁水に沈む「泥」に例えていた。
同じものだが、ただ浮くか沈むかで運命が違うことになった。
建安16(211)年、曹丕が高い官位を得て事実上太子となった時期と考えられる。
九愁賦にも塵と泥の対比がある。塵は曹丕、泥は曹植で同じだが、道と水の清濁が逆転している。
(筆者)つまり、どこかで「私は清水に沈む泥となろう、(兄のような)濁路を舞う塵にはなるまい」という開き直りがあったということです。
質疑応答
詩経、毛詩、漢詩などのジャンル分けの質問がありましたが、理解が追いつかないため省略します。
Q. 雑詩六種の「西北有織婦」や、七哀詩の「西南風」などの方角に意味があるのか?
A. 当時の知識人には意味があった。例えば、西晋時代に改変された詩では、曹植の墓から曹丕の墓の方角に、正確に風が向かうようになったりした。
Q. 七哀詩の制作年代は、211年説か217年説か?
A. 前者。複数の建安詩人で同時に競作されたという前提で、王粲(おうさん)と阮瑀(げんう)の活躍時期から見て208-212年と推定した。(王粲は208年に曹操に仕え、阮瑀は212年に死去)
感想
曹丕と曹植の内面を描写する小説を書きたい人には、リアリティを強化するために参考になりますね。
個人的には、曹植は芸術家・詩人としてはすごいのでしょうが、魏という政権のトップには明らかに不適任だと思います。
曹操は本当に曹植を後継者に考えたのだろうか?
曹沖ならともかく。。。
曹操の子孫たち-後世の沛国曹氏、および夏侯氏-
三国志学会会長・駒澤大学教授 石井仁
まずは石井先生の近況のあと、研究に従事する若い人たちへの提言がありました。
三国時代は三国志だけを見てはいけない。
魏晋南北朝史の一部であり、前後をつなげて見て初めて分かることがある。
今回の発表はその実例で、魏の創始者である曹操とその親族が、実は数百年後の南北朝時代にも影響を与えていたという話です。
南朝における曹彰の評価
斉と梁の重臣だった蕭氏の一族、長沙王蕭晃は、曹彰に資質が似ていた。
太祖は「我が家の任城王(曹彰)」と呼び、曹彰と同じ威王という諡(おくりな)をつけた。
蕭続も、梁の高祖から「我の任城」と呼ばれ、諡は威王。
曹植その他の評価
どうやら、武勇に秀でた皇族を曹彰に例えて「任城(王)」と呼び、同じく文章が巧みな皇族を曹植に例えて「東阿王」と呼ぶ習慣があったのではないか。
例えば、蕭子隆は文章が巧みで、「我家の東阿王(曹植)」。太宗簡文皇帝も「我家の東阿王(曹植)」と呼ばれていた。
また、曹休の「吾家の千里駒」も、後世の事例にたくさん使われている。当時は現代人が想像するより、はるかに沛国曹氏の知名度があった。
曹彰の人物像(再評価?)
三国志では死因は不明で、曹丕に冷遇されて憤死(魏略か魏書)とされるが、毒殺(『世説新語』)という説もある。
軍隊に人気があったことは確かだが、一般には武骨で軽率な人物と思われている。
しかし、王子年(王嘉)が書いた『拾遺記』では、曹彰は文武両道で徳もある、大変立派な人物として記されている。
(筆者)ここから『拾遺記』に関して、いろいろな話が展開されます。
梁の蕭綺という謎の人物の話や、符堅(前秦の皇帝)と姚萇(後秦の創始者)の関係など。
さらに三国志でもおなじみの麋竺や、曹丕の側室薛美人の俗説なども。
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そして時間となりました。
感想
後半は「三国志の研究者は『王子年拾遺記』を掘ると面白いかもよ」というお話でした。
雑学としては面白いですが、本題の「曹彰が知勇兼備だったのか」は謎のままです。
渡邉先生が石井先生を紹介するときに、「なんでこんなことまで知っているんだろうと感心する」と話していました。
今回まさに、その幅広い研究範囲の一端が垣間見えた気がします。
用意された紙の資料にはもっと多くのことが書いてありましたが、いずれにせよ石井先生の著書になるとのことなので、完成・出版を待ちましょう!