【日記】初めての父親参観日
6月18日(土)。本日は、年中の娘が通う幼稚園の父親参観日であった。
父親参観日なるイベントに参加するのは本日が初めてである。
父親である自分が、このイベントを迎えるにあたって、緊張しているかと言われるとそうでもないのだが、前日、娘は相当嫌がっていた。恥ずかしいのだろう。
不思議なものだ。母親参観等は、特にこの「恥ずかしさ」と言った感情は特に持っていなかったはず。一方、これが父親に変わった瞬間に、それが生じるらしい。
母親が幼稚園に来る、ということは、ある種当然のことのように理解しており、父親がその領域に踏み込むというのは、ある種の気味悪さがあるのだろうか。
この場合の「恥ずかしさ」は、どちらかというと居心地の悪さ、というものにも通じるのかもしれない。
つまり、母親とは全てを許せる相手であり、全てを開示している共犯関係を築いており、父親はあくまでも、その範囲においては、外側の人間ということであろう。そんな人物が、自身のプライベート空間(←ここでは、幼稚園)に来るというのがなんとも不気味なことだと感じるのだろうか。
思えば、娘も幼稚園に通うようになり、家での自分と、幼稚園という社会空間における自分、という、二つの自分を既に使い分けているということだろう。これができる人とできない人がいると思うが、娘は幼稚教育の段階からそれができるタイプの人間だった。
さて、くだんの父親参観である。朝10時に父親は幼稚園のグランドに集合。娘はいつも通り、もっと前に園バスで幼稚園に着いている。
グラウンドに到着すると、似たような父親がちらほら。子どもたちはグラウンドで遊んでいる状態らしい。自分の父親を見つけて、近づいている子どもたちもいる一方、我が娘は、すごく恥ずかしそうに、一度、私の存在を遠くからチラ見したのち、そこから私の方を見ることはなかった。
定刻になり、子どもたちはいったん教室へ退散。続いて父親たちも、教室へ向かう。いよいよ参観の始まりだ。
教室に入る。いつも娘が過ごしている教室。外で遊んだ後は、手を洗ったり、トイレに行ったりしてから、教室に戻るらしい。教室に戻った後は、タオルを自分のロッカーにしまって、その後、教室の中央付近に集合。この辺りは先生の腕が光る。
父親たちは、教室の端っこにぐるりと並べられた小さなかわいい椅子に腰かけて、子どもたちのおそらくいつものルーティーンであろう体操したり、挨拶したりしている様を笑顔で観察するタイム。
我が娘は、ここでも恥ずかしさを遺憾なく発揮していた。みんなが中央に集まって、体操やらをしているときにも、まだ後ろのロッカーでタオルを片付けている。あるいは、そのふりをしている。教室に入ってきても、私の顔を見たりはしない。
ようやく、先生に促されて、他数名の同じような所作を決め込んでいたお友達と一緒に中央へ。ここで先生から本日のイントロダクション。父親参観日であることが改めて、生徒、父親に告げられる。
この時ようやく、私の方を見て、手を振ってくれた。それでも、まだまだ照れ臭そうに、すぐに目線をそらす。
この日は、娘他2名が、クラスの当番になっていたようで、前に出て何やら挨拶の号令等を掛けている。これもイマイチ照れ臭そうにしている。
妻から聞いていた情報によると、本来はクラスの中でも率先して、声を出したり、前に行くタイプらしいが、やはりこの日は緊張しているようだ。
ただ、その後、本日の本題、父親と一緒に工作する時間が設けられ、「みんなお父さんのところに集まれ~」タイムになると、もうその手の緊張は解けたようだ。その後は、普段の娘らしく、一緒にUFOを作り、その後、グラウンドで投げて遊んだ。
グラウンドに行く前には、似顔絵のプレゼントと、デコレーションされた素敵な小物置き、そして、歌のプレゼントまでもらった。こういうタイミングはいつも目頭にこみあげるものがある。
成長したなぁ、としみじみ。たった4年、もうすぐ5年。人間の成長は早い。自分は間違いなく、彼女と同じスピードでは成長できていない。そまあ、それは無理なんだろうけど、それでも、成長ということを考えるきっかけになった。
後は、なんだろう。冒頭の話から、自分らしさのようなものを考える。
いつでもどこでも自分らしさが発揮できていることが望ましいというのは否定はしないが、この自分らしさを、自分本来の姿、と言い換えると、ちょっとよくわからなくなる。
というのも、そもそも自分本来の姿というのは、何なのだろうか。自分の例でいうと、おそらく属するコミュニティによって、その姿を使い分けている。家族といるとき、会社にいるとき、一人でいるとき、友人といるとき。
どれも、おそらく自分らしさは発揮しているような気もするが、本来の姿がどれかはわからない。おそらく一人でいるときが一番着飾っていない自分の姿なのだろう。その着飾っていない姿で、どの場面でも勝負できれば、楽だと思う人もいるし、そう思わない人もいるだろう。
こうして、私たちは、社会に出て、それぞれのコミュニティで自分を使い分ける術をいつの間にか身に着ける。
だからこそ、今回の娘の話ではないが、違う自分を知っている人に、違う自分を外から見られることが嫌なのだろう。私だってその気持ちはよくわかる。
そう考えると、結婚式というイベントはそれをごちゃまぜにして、見てもらうイベントなので、それを超越する意味があるのだろう。まさに新生活のスタートにふさわしいイベントだ。
とそんなことを考えた初めての父親参観。