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A night in CINE-MA Ⅱ 【前編】漂流する映画館、ふたたび

中山英之(建築家)+藤原徹平(建築家)
TOTOギャラリー・間「中山英之展 , and then」
ギャラリートーク「a night in CINE-MA」2

表紙写真=© TOTO GALLERY・MA

「ふたたび」の意味するところ

中山英之 みなさんこんばんは。藤原さんとふたりで座れていることがとてもうれしいです。ぼくが藤原さんを対談にお呼びするのは初めてなんじゃないかな。

藤原徹平 あれ?そうでしたっけ?

中山 はい。藤原さんはいつもぼくをいろいろなところにひっぱりだしてくれる人なんです。でもぼくの方では藤原さんを連れ出せるような場をつくれたことはこれまでなかった。やっとそれが叶いました。今日はどうぞよろしくお願いします。
さて、今晩の対話のタイトルは「漂流する映画館、ふたたび」。「ふたたび」って何だろうって思う方もいらっしゃるかもしれません。「漂流する映画館」は、ドリフターズ・インターナショナル[※]が主催したイベントの名前です。2011年の東日本大震災からまだ間もない9月のこと、大きな衝撃のなかでこれから先の未来や社会のことをやっと考え始めた、そんななかで藤原さんを中心としたチームがクリエイターと一緒につくりあげたのが「漂流する映画館」でした。横浜に黄金町という場所があるのですが、その街中に5つの仮設スクリーンが設置されて、観客は歩いて移動しながら1本の映画作品を体験する、というもので、この企画のために「5 windows」(監督:瀬田なつき、主演:染谷将太)と題された短編が撮り下されました。

※ドリフターズ・インターナショナル……金森香、中村茜、藤原徹平が理事を務める一般社団法人。建築、ファッション、演劇やダンスなどのパフォーミングアーツ、グラフィックデザイン、空間デザイン、インクルーシブデザインなどの専門家が集まり、実験的な創作活動の場を醸成するための多様な事業を企画・運営している。

中山 夜、指定された時刻に黄金町へ行くと地図が手渡されるんです。観客はそれを頼りに街を彷徨ううちに、何の変哲もない民家の壁にスクリーンを発見して、それを隣のコインパーキングから眺めるようになっていたりするわけです。それぞれのスクリーンには断片的な映像が上映されているのですが、必ずしも明確なストーリーが追えるようにはなっていないんです。だからなんとなく謎解きのような気分になる。そして途中から、どうやらそれらがまさにいま自分たちが歩いているその街で撮られていることに気づいてきたあたりから、体験が一気に重層化します。登場人物が何気なく見上げた目線の先を、実際に同じ場所に立ってなぞってみる。すると、そこに見えたビルが別のスクリーンの屋上シーンとリンクして、みたいなことが次々起こるんです。どこかから料理屋さんのソースの匂いが漂ってくるだけで、映像体験が文字通り実体化する。そんなふうにして集められた経験を自分なりに頭の中で編集しながら歩くのがほんとうに新鮮で、楽しいんです。そうこうしながら、まとまらない推理がまだ頭の中をぐるぐる渦巻いているうちに、シネマ・ジャック&ベティという小さな映画館にたどり着きます。そこで初めてシートに腰かけて、監督による編集を全編観ると謎が解ける、という。映画の中の出来事と自分の経験が重なり合うことでひとつの物語世界が立ち現れる、それまで味わったことのない表現の発明に痺れました。

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© Teppei Fujiwara

この驚くべき仕事は、藤原さんが指名した若い建築家のチームnoma( 伊藤孝仁、藤末萌、森純平、徳山史典、西高秀晃、堀田浩平、冨永美保、小野圭介、戸崎友理、小金丸信光、佐藤拓真、伊東鷹介、小山幸浩、寺田英史、横田裕希、梯朔太郎、河田將博、今野未奈美、五十嵐新一)と映画監督である瀬田なつきさんを中心としたプロダクションチーム、それから蓮沼執太さんを中心とした音楽チームによってつくりあげられました。藤原さんは、今となっては到底集められないような超のつく豪華メンバーを、その先見の明と多彩な人脈で実現させてしまった。
さてさて、このイベントに合わせていくつかのトークショーも企画されたのですが、そのうちのひとつに、ぼくも呼んでいただきました。お話ししたのは映画監督の濱口竜介さん。濱口さんも、今やカンヌ映画祭で作品が上映される監督になってしまわれましたが、当時はまだ大学院を出たてのころでした。恥ずかしながら、ぼくもそこではじめて濱口監督のことを知ったのですが、そこから交流が始まって、なんとこのトークシリーズにも出演してくださいます(第6回「想像力の労働、そのはなしの続き」)。

そんな機会が持てるのも、ひとえに藤原さんがぼくを連れ出してくれたからに違いありません。「漂流する映画館」で濱口監督とお話をして、映画についていろいろなことをお聞きしたり自分でも考えたりするうち、建築家と映画監督には、世界への眼差しの向け方に共通するところがあるなと思うようになりました。それから、僕は映画については素人ですが、建築の言葉について日々考えていると、いつの間にか映画や文学や、違った分野の表現者たちと、その言葉を使って対話ができるようになっている不思議。そういった嬉しさも、藤原さんにひっぱり出してもらえなければ味わえませんでした。
そしてさらにもう1人、この「CINE間」トークシリーズにお招きしている映画監督がいるのですが、この方と出会うきっかけも藤原さんなのです。藤原さんがホストを務めた「5人の建築家と5人の表現者による対話実験」(ワタリウム美術館、2014-2015)で一緒にお話をした、安藤桃子さんです(第3回「建築のない映画館」)。
このワタリウムでのトークはシリーズ化されて、演劇やアート、ファッションや文学と、ゲストのリストを見るだけでドキドキする。そんな藤原さんだから、今日は他の分野にも脱線していくと思うのですが、藤原さんにとって映画を観ること、映画を考えること、そこから翻って建築について考えることがどんなものなのか、今日こそ僕が聞く側になって引き出せたらなと思います。そのなかに1人、梅本洋一さんというキーパーソンが登場しそうなんですけれども、その方がどんな方だったのかというところから、藤原さんのお話をしばし聞かせていただきましょう。

藤原 ご紹介ありがとうございます。なんだか、恥ずかしくてお尻がかゆくなりました(笑)。今中山さんから紹介があった一連のトークイベントは対話実験というものでして、この企画は2009年、まだ隈研吾建築都市設計事務所で働いていたころにワタリウム美術館からのオファーで始めたもので、今や私のライフワークみたいな感じになっています。のちにドリフターズ・インターナショナルを立ち上げる金森香さんや中村茜さんに、建築界が蛸壷化しているように感じると話したら、同じようなことがファッションでも演劇でも起きていると言う。それで、お互いの領域にとって刺激になり、新しいコラボレーションが起きていくような対話を企画していくことになりました。
かつて東京にはさまざまなジャンルが交わって爆発するようなパワーがあったと思うんですね。過去の話を聞くと遊びでつくった感じのプロジェクトがどんどん国際的に展開していっているスピード感があります。磯崎新さんが企画した「間」展なんかは、そのようなものだったと思います。遊びとして企みを練れる都市や社会に文化の力があったけれど、いつのころからか、そうした街ではなくなっているように思います。だから対話実験は企みを生むための機会をつくるため、さまざまなジャンルのつくり手や批評家を繋ぐ場をつくろうという企画なのです。今まで30回ほど開催しています。実は今までの対話実験の最多出場は中山さんなんですよ(笑)。対談相手は、濱口監督、安藤監督、冨永昌敬監督と、奇しくもみなさん映画監督ですね。
ジャンルを超えた議論は決して容易なものではありません。そのジャンルを背負って立つようなものを持っていないといけない。さらに対談するクリエイターどうしは初対面というのがぼくのつくったルールです。ある種のお見合いみたいな場で、モデレーターであるぼくも緊張します。来てくれる人はどちらもぼくとの個人的な関係を信頼して来てくれるので、うまく対話をつくらなければ、二度と建築のイベントに出てくれない可能性もあります。その緊張感が予定調和でない面白さをつくる。

映画評論家・梅本洋一との出会い

藤原 さて、先ほど梅本洋一さんの名前が中山さんから出ました。映画評論家として著名な方で、横浜国立大学で教鞭をとっておられ、都市イノベーション学府という文理融合の大学院の初代研究院長をされていましたが、残念ながら2013年に亡くなられてしまわれました。梅本さんとぼくとの出会いは大学院のころにモグった授業の中での言い争いでした。当時は、建築家になるべきか、ゼネコンや大手組織設計といった会社へ勤めるべきか迷っていたんですが、「好き勝手に生きてるんだから、建築家になるべきだ」と友達に怒られたんです。学生時代は、仮設建築を年に2個ずつつくったり、劇場やイベントを企画したり、仲間と徒党を組んでいろんなことを画策していた。でも集団製作に興味があったので、そのまま友人とできるならいいけれど、ひとりで続けるのは嫌だなあと。ところが友達からガツンと言われてしまったので、建築家として生きる覚悟を持つために、修士論文を出さずに留年しました。その一年間で大学の面白そうな講義に片っ端からモグっていたのですが、そこでモグった講義の一つが梅本さん、音楽家の大里俊晴さん、美学研究の室井尚さんが合同でやっていた講義です。そこでは、学生が書いてきた文化批評を読み上げ批判するみたいな過激な講義でした。批評の対象はなんでもいい。例えば、Radioheadの「OK Computer」(1997)というアルバムについて。学生がそれを絶賛するテキストを書いてきたら、教授たちはRadiohead なんて大したことない。The Velvet Undergroundを聞けみたいな感じで返す。そういう喧々諤々の雰囲気が漂う授業でした。学部1年生の講義だったから、なんだかいてもたってもいられなくて、ぼくも手をあげてじゃあ先生たちは安藤忠雄をどう思うんだ?と発言したんですよね。で論争していたら梅本さんから、講義の最後に「君、あとで研究室来て」って公然と呼び出しくらいまして。怒られるのかと思ったら、君は何者なんだと面白がってくれた。研究室には、自分がちょうど一冊買ったばかりだった映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』のバックナンバーがずらりと並んでいて、「たくさんありますね」と聞いたら「俺が編集長なんだから当たり前なんだろう」と(笑)。

中山 それは驚きますね。

藤原 ええ。『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』は、フランスの映画を日本へ、日本の若手映画監督をフランスへ紹介する使命で発行された雑誌で、当時映画にハマっていた自分にとってのヒーローである黒沢清さん、青山真治さんが撮った映画を詳しく知ろうとすると、絶対にこの雑誌に行き当たるような、そのような存在でした。他にも作家の阿部和重さんが新しい映画批評を書いていたり。建築学科の研究室と梅本さんの研究室は、棟は違えど、ほんの数百メートルしか離れていなかったのに、自分が没頭していた文化の発信拠点があったことを全然知りませんでした。それから研究室に通うようになり、エスプレッソをいただきながら映画や都市について、本当にいろんな話をしてもらうようになりました。ある時は自宅のペンキを塗り直すのを手伝ってくれたら、青山真治に会わせてやるぞと言われたり。

中山 ええっ!

藤原 当然行きますよね(笑)。そこで会わせてくれただけでなく、青山さんの映画評を書いたら(本人に)送ってあげるよと言ってくれたり。どうしてたかが学生に対してそんなことをしてくれるのか、聞いたことがあります。そうしたら「批評と創造は、ある種恋愛関係みたいなんだ」とおっしゃるんです。どういうことかというと、批評によってクリエイターが次の作品をつくれるようじゃなければだめだ、良い批評は良いクリエーションにつながる、ということです。だから学生だろうが専門家だろうが、藤原が独自の視点で書いたテキストから青山が次の作品を作れるんだったら、立場は関係ないと言われました。
中山さんは、さっきぼくが中山さんをいろんな人に出会わせたとおっしゃってくれましたが、ぼくにとっては、梅本さんが世界に出会わせてくれた人です。真剣な思考の場、社会と直接つながるきっかけが大学にある。そんな世界があることにぼくは心底感動しました。そして、ぼくも真剣に物をつくり真剣に批評をして、さらに次の作品が生まれていくような連関に身をおきたいと考えるようになりました。そこから『建築文化』や『10+1』といった建築批評誌にテキストを書かせてもらう機会を得るようになりましたが、ぼくはいつも文章を書くときに梅本さんに向かってテキストを書いているような気持ちがありました。だからぼくにとって、梅本さんは最初の読者でもあり最初の批評の先生でもあるのです。

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© Teppei Fujiwara

中山 大学にいながらにして、社会に言葉を持つきっかけを得たと藤原さんはおっしゃいましたが、大学、大学院にいるあいだって、まだもう少し先に起こることに対しての準備期間のように、どうしても考えてしまいがちです。実際、自分も大学で教えていると、学生たちにそういう感じを受けることがあります。でも、梅本さんは学生をそういうふうには見ていませんね。聞いていて、藝大の入学式の日のことを思い出しました。歓迎会である先輩の講釈を聞かされたのですが、それがかつて作曲科に在籍していたSという伝説の先輩のエピソードでした。Sさんは生意気な学生で、上野の東京文化会館で武満徹さんのプレミア上演が開かれた夜、会場前でビラを撒いたのだそうです。武満さんは当時すでに日本を代表する作曲家です。その武満さんを、これはオリエンタリズムであると断じた。西洋人が、東洋的な旋律に感じてしまう憧憬、あるいはコンプレックスをいたずらにくすぐる音楽であり、新しい世界音楽とは言えない、と。それから時が経ち、音楽家として活躍し始めたSさんは武満さんと再会することになる。恐ろしいことに、武満さんはそのビラのことを覚えていたというんです。けれども彼は怒っていなかった。むしろ学生から鋭い批評を浴びるということは、自分が最先端と目されていることの証だと。そんな伝説をぽかんと聞いていた僕たち新入生に、お前も準備体操の季節はもう終わりだぞ、というのがその先輩から言われたことです。だからといって、明日ビラを撒きに行く場所も相手も浮ばないのが僕の現実でしたが、梅本さんも同じような姿勢で、たまたま門を叩いた藤原さんに接したのですね。

【後編に続きます】

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2019年6月14日、TOTOギャラリー・間にて
テキスト作成=長谷果奈
テキスト構成=出原日向子


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