A night in CINE-MA IV 【後編】想像力の労働、その話の続き
中山英之(建築家)+濱口竜介(映画監督)
TOTOギャラリー・間「中山英之展 , and then」
ギャラリートーク「a night in CINE-MA」4
表紙写真=© TOTO GALLERY・MA
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偶然を撮る
濱口竜介──ここまで、自分が観た映画についてばかり話してきましたけれども、最後に自分がつくっている映画のことを少しお話しします。僕が今やってるのは、今まで挙げた誰よりもベタなことです。つまり、偶然を直接的に撮ろうとしている。例えば、ある2台の車が隣合う車線を走っていて、ちょうどその車が同じ速度になると、高速で走っていても車の窓からもう1台の車は停まっているように見える。これまでにそういう瞬間を実際に捉えたりしています。ただ、僕の関心が最近向かっているのは、はもっと些細なことです。それは役者の身体(からだ)に現れる些細な偶然のことです。その準備のためにやっている、具体的なことについて、少しだけ最後にお話したいと思います。それは、本読み(脚本を音読すること)をひたすら役者とやっているということです。自分が監督した「ハッピーアワー」(2015)や「寝ても覚めても」(2018)では、本読みして役者の演技をつくっています。
どういうことかといいますと、場面の撮影に先立って、出演する役者が集まって台本を音読します。ただそこでは感情的なニュアンスを抜いて読む。いわゆる棒読みですね。これはフランスのジャン・ルノワール監督がドキュメンタリーでやっていた読み方を真似ているのですが、「電話帳のように」読むのです。セリフは本来感情やニュアンスが伴うものですが、それを一旦抜いてただ文字面として読み上げていく。最初は役者にセリフを覚えてもらうためにやっていたのですが、これまで起きなかった良いことが起きるような気がしています。何かというと、「その人自身が現れる」ような気がしたんですね。といってもそれが役者自身、ということかはわかりません。というのは、その感覚はフィクションとしての台詞を生身の役者が発するその瞬間に訪れるからです。役者は、僕が持っている人物像に沿ってうまく演技をするのではなくて、彼・彼女はこういう人だったのかと思ってしまうような演技をする。そういう機会が、本読みを始めてから非常に増えるようになりました。役の上でのキャラクターなのか役者自身なのか不分明な状態に達するような気がする。少なくとも僕にはそう見える。
本読みは1日かけて読んだり、長いシーンであれば数日かけて読むこともあります。読めば読むほど役者がテキストに慣れていく。実際の現場で起きることを単純化するのは限界がありますが、あえて一般化しますと、最初は書かれている意味に対して敏感で、いちいち身体が反応していたのに、だんだんと鈍感になっていく。そうすると文字面そのものを読み上げることができるようになります。そうして無感情な「零度の声」ができあがる。そして役者一同が集まって読むことで、他の役者の台詞も含めて零度の声で読み上げられることに耳が慣れていきます。ここで強調しておきたいのは、感情は僕にとっては何より重要なものです。本読みは無感情のためではなく、感情のために行われる準備です。撮影本番では感情が入ることは特に拒否せず、演技してもらいます。ただ、できればその場で感じたことに応じて反応してほしいとだけお伝えします。本読みは、演技の根本的な問題──何が起きるか知っているにもかかわらず、初めて出会ったかのように振る舞わないといけない──を部分的に解決してくれるような気がしています。つまり役者たちは、何を言うかは知っていても、それをどう言うのかは知らない状態になっているからです。いろいろな要素が重なり合ったあるとき、零度の声に馴れた耳に感情的な声が入ってくることがあります。そうすると、人は差分を感知する。その差分こそが、偶然というものだと思います。その場で起きていることを感知する。慣れをつくることによって不意打ちをされて戸惑う身体を準備しているとも言えます。その戸惑いを否定することなく、反応をしてもらう。書き言葉である台詞を発話する行為はそもそも不自然なので、その不自然さが消えるわけではありません。が、にもかかわらず、あるいはだからこそ「その人自身が現れているように感じる瞬間」が発生することがあります。いま、この場では台詞はまさにこのように響くべきであったのだ、ということが納得されるような事態が訪れて、役者の身体、声、表情が現実(のその人自身)とフィクション(としての台詞)の結晶のように感じられることがある……。
そんなような気がして、こういうことをやっているわけですが、なにか中山さんのやっていることと関係があるんじゃないかと思って、今日お話してみました。どうして関係があると感じたかというと、この展覧会に合わせて刊行された書籍に、こんな文が載っていたからです。岡田邸について、施主の岡田さんが話された言葉です。
……この家は結構おしゃれなものに見られるんですけど、実はそんなことは全然なくて。変な家なんですよね(笑)。住んでいるわれわれも全然おしゃれではなくて、散らかっているし、むりやり住んでいる。それとは別に結構怖い家でもあって。いろいろな関係が入れ子になったり、関係が相対的に入れ替わったり、外と中の関係が延々と変わり続けるみたいな感じがある。
(中山英之『建築のそれからにまつわる5本の映画 , and then: 5 films of 5 architectures』TOTO出版、2019、P.65)
自分が住んでいる家のことを「結構怖い家」といえる人は世の中にそう多くないと思うんですが(笑)、基本的に住むということは慣れ親しむことでもありますよね。「怖い」ということは、あるときに岡田さんにとって馴染みのない、よくわからない表情を家が見せることがあるのだと思います。僕が想像するに、この「怖い」ということこそが、中山さんのつくっている建築の一部なのではないかと。中山さんの建築は住まないと出会えないような突拍子もない暮らしを住む人にもたらすんじゃないでしょうか。そういう暮らしのポテンシャルを露わにすることが中山さんの建築がやっていることなのではないかと展示を見ていて感じました。それは、暮らしの中にフィクション(外と中の関係性が永遠と変わり続ける)を持ち込もうとしているとも言える。それは、暮らしのなかの偶然を通じてつくられるフィクションです。そうした偶然が起きるように設計をされている中山さんはやはり、途方もない建築家なんじゃないかと思いながら、今日は偶然と想像についてお話してみました。どうでしょう、中山さん。
偶然のクリスタルをデザインする
中山英之──ねえ、素晴らしいでしょう! 濱口さんのお話の続きをぜひここでお聞かせしたかった理由が、わかっていただけたのではないでしょうか。ただすみません……、実はぼく、エドワード・ヤンもホン・サンスも、観たことないんです。でも、濱口さん直々にリコメンドしていただけたと考えてみたら、とっても贅沢ですよね。
濱口さんのお話で今日も感じたのは、映画にまつわる思考が、建築家の悩みに、そのまま重なって聞こえることです。どちらかというと僕たちの仕事には、世界にべたべたと「必然」のレッテルを貼っていくようなところがあります。起こるべきとされていることが首尾よく起こるように、機能に形を当てはめた場所をつくっていく時間が、僕たちの仕事の大半です。だから「偶然」っていうのは、設計することのできない、手の届かない対象なんですよね。山のなかでかたちのいい岩を見つけて、そこを一服の場所に決める、みたいな素敵な偶然は、座る場所として設計した人がいないから素敵であれるわけで。でも、ここで座りなさいと指示するような野暮を言うのが建築家。「偶然のクリスタル」って、なんて美しい言葉と思いますが、僕たちの主な仕事は、むしろそれを割ってしまうようなことだったりします。だから、映画という世界から偶然への憧れを聞かされて、ぐっと前のめりになってしまいました。それどころか、「本読み」を繰り返すことで零度の言葉を獲得することが、本番という瞬間に偶然をもたらすだなんて。そんな「偶然」の設計方法があることに、鳥肌が立ちました。
『建築のそれからにまつわる5本の映画』の中に、「ふたつの『リアル』」というテキストがあります。そこに、映画を観た感想によく出てくる「リアル」という表現が苦手、みたいなことを書きました。そう言われている時、この言葉には「再現性」と「現実性」、2つのニュアンスが混同されていて、それがどうしても気持ち悪いんです。例えばブシューと血しぶきが飛んだり、恐竜の群れが草原を横切っていったりすることに対する「リアル」は、「再現性」の方です。一方で、映画の感動には、それが描かれた「再現」であることを超えて、自分にとっての現実が、こちらのなかから立ち現れてしまう瞬間もある。こっちのほうは「現実性」で、「リアル」というより「アクチュアル」が近いかもしれません。見事な演出や凄いCGで「再現性」を上げても、その映画が必ずしもアクチュアルであることに近づくとは限りませんよね。だって、例えばミュージカル映画はあらゆるシーンでそれがつくりものであることを謡いあげているのに、時にとてもアクチュアルだったりする。そういうところが映画の素晴らしさだと思うから。
こんなことを書いたのは、さっき言った「建築家は偶然を設計することはできない」ことと関係しています。例えば、人々が少しずつ手を入れながら徐々にでき上がっていった街並みがどんなに素晴らしくても、その建物をどこかにそのまま「再現」したら名建築になるかというと、そんなことはありませんよね。僕たち建築家は、そういう名もない時間の積み重ねを設計することはできない。けれども、つくり物しかつくれない僕たちでも、どこかでそれが誰かのアクチュアリティを揺るがす何かでありたいと、いつも思っています。それを「偶然のクリスタルをつくること」と言ってしまうと、言葉の美しさに気圧されてしまいそうですが、映画を見ることは僕にとって、まさにそれが実現されている瞬間に出会うことです。そして濱口さんのお話は、まさにその方法に迫っていくスリルに溢れています。
濱口──展覧会で上映されている5本の映画を観させていただいて、中山さんがこのような形式をとるのは必然的であるように感じました。つくるまえに何を考えていたかではなく、つくった「あと」を展示する。それが自分の建築であると提示するのは、妥当なことだという気がしました。というのも、僕は映画を観て、言葉を選ばずに言えば、「なんて変な家なんだろう、ここで人はどうやって暮らしているのだろう?」と思ったのですが、映画の中に登場する、住まい手たちは暮らし方を見つけているように見える。カタログ化されたライフスタイルではなく、そこから離れた暮らしを発見しているという感覚があり、それは建築の有り様がなければ生まれていないような気がする。空間としてだけではなく時間としての建築の「それから」が中山さんの建築の本質としてあるのではないでしょうか。
中山──1年前に『1/1000000000』(LIXIL出版、2018)という本を書いて、自分で自分の仕事について話すのは、その時に絞り尽くしてしまった、っていう事情もあるのですが(笑)。展示のお話をいただいた時、ふと頭を過ったのがセルフィー(自撮り)のことでした。ぼくたちが前回対談したころは、まだ自分にカメラを向ける行為はそこまで一般化していませんでしたよね。今この会場には、たぶん人の数よりも多くのカメラがあります。そんな環境に世界が変化して、今では自分にレンズを向けることをナルシストと指差す人はいなくなりました。だとすれば、住まい手に自分自身を撮ってもらう行為を展示することが、はしたないと感じられない時代のはじまり、と言うこともできるのかな。そんなことを考えて、「セルフィーによる建築展」をやってみよう、となりました。
濱口──彼らのプライベートライフをご覧になって、どう感じられましたか?
中山──いくつかあるんですけれど、最初はこれ、全部観られちゃったら僕のところには仕事が来なくなるかもって思いましたよ(笑)。だって、ラッシュを観たら建築家の思惑が裏切られる瞬間がこれでもかと写っているわけだから。でも、急に気づいたんです。それって自分が実現したかったことそのものじゃないかって。建築家の意図とは異なる解釈が、建築の形を別の何かにしていたんですよね。一度そのことに気づいたら、あとは映画という方法の前に現れる、もうひとつの「現実性」を、観客として味わえるようになりました。それは、濱口さんが話されていたような二重の現実を生きているような体験、って言えるかもしれませんね。
濱口──どのようなことをすると建築家に仕事が来なくなるかは、僕にはわかりかねますが(笑)、なにかすごいものを観ているという感覚がありました。1つ上挙げるなら「弦と弧」でしょうか。フィクションを観ているような感覚になりますね。書籍のほうで「ライフ・アクアティック」(2004)を引き合いに出されていましたが、その映画では船を断面化することで船室が一望できるという現実にはありえないショットが出てきます。それはあきらかに舞台のようなフィクションであるわけですね。そのようなものを観ているのにすごく近い感覚がありました。
中山──あの船の断面セットを使ったシーンは、映画が映画であること、そのまんまですものね。けれども、そんなことでは僕たちのなかに湧き上がる「現実性」は、ちっともダメージを受けません。そればかりか、映画の側が自ら「再現性」の巧拙で採点されることから距離を置いてくれていることで、むしろ映画という現実性に、自分の内にある現実性を重ねられるようにすらなっている、というふうに感じました。
今回僕たちは、自分たちでは監督はしないと決めていたのですが、少しそれを超えた関わりを持ってしまったのが「弦と弧」でした。こちらでカメラそのものをつくってしまったので。
濱口──ひとりの映画監督として言うならば、カメラポジションが決まっているということは映画監督としての仕事をとられているようなものですよ(笑)。
中山──そうですよね。そういう意味では、お願いするそれぞれの住まい手にどんなカメラを渡すのかについては、こちらの側でかなり考えました。その時点で、「自分たちは監督していない」には、ちょっぴり嘘がありますね。「弦と弧」に至っては、カメラの設置場所だけでなく、それが7.5mの吹き抜けを昇降する仕組みや、それをリモコンで簡単に動かすプログラムまで、自分たちで製作してしまったので。
↑クリックで昇降カメラが稼働する様子をご覧いただけます。
*『建築のそれからにまつわる5本の映画 , and then: 5 films of 5 architectures』には、「弦と孤」を含む5本の映画をご覧いただけるURLが掲載されています。
潜在的な映画の空間
濱口──エレベーター的な動きをこんなにもうまく表現した映画は他にほとんど思い当たりません。強いて言うならジョゼフ・ロージーの『M』という映画ぐらいです。ぼくは乗り物に乗る行為に興味があるのですが、エレベーターもダイナミックな動きをする乗り物なのでいつか機会があれば撮りたいと思っていました。でもなぜ撮れないかというと、大抵のエレベーターは閉じているからです。カメラを置いてもドアしか写らない。ガラス張りのエレベーターも大方は外に向いているからか、あんまり面白くない。できれば建物の階層を見せたいと思っていました。だから、僕には「弦と弧」はこの映像を撮るためにつくったセットのように見えます。いつか撮られる瞬間を建物が待っていたかのようです。カメラと被写体の幸福な関係ですね。
中山──嘘かと思われるかもしれませんが、建物を設計している時、すでにこの架空のカメラは頭のなかにあったんです。設計って、当然のことながら使い手や住まい手の目線をいつも考えます。僕にとってもそのことは大事ですが、同時にその主体もろともを、どこか別の場所から見つめている視点を、いつも思い浮かべているようなところがあって。はじめはあまり意識していなかったのですが、設計を絵コンテのようなスケッチで考えていく癖のせいかもしれません。
濱口──まさか住んでいる人も自分が映画のセットに住んでいたとは思わないでしょうね(笑)。潜在的な映画の空間として、日々の暮らしがあるということですか?
中山──そう言われると、撮られることのない映画のためのセット、っていう感覚はその通りかもしれない。建築家は、客観的な事実の積み重ねで形の根拠を説明することに長けていて、その時主体としての建築家自身の姿は、レトリックの裏に隠されています。でも、実際には他のすべての可能性をひとつの決定によって摘み取る判断を下しているのもまた、建築家です。それはなかなかに背徳的な所業で、建築家の語りにはどこかで、そこに酔っているようなところがあるものです。いっぽうどこかで、そのことを隠すことなく伝えないと、と思う気持ちにもまた、嘘はありません。「架空の映画のためのセット」という表現はその気持ちに、どこか重なるような気がします、
濱口──やはり中山さんの建築の本質が現れてしまっている展示なのではないでしょうか。
中山──さきほど「弦と弧」についてとても嬉しいことを言ってくださったのですが、濱口さんの映画を観ると、たとえば乗り物が移動手段動であると同時に、ガラスとそこに反射する映像をまとった何かであることに、ハッとさせられたりします。『ハッピーアワー』の、電車の扉が閉まる瞬間、実像と反射で表情と表情が交錯するシーンなど、何度も見直したくなってしまう。そうしたディテールを語りだしてしまうと時間がとても足りないのでやめておきますが、修了制作(『PASSION』2008)の頃から、何気ないマンションの限られた空間を手品のように使って、居合わせた人々を自在に切り分け、複数の物語が並走していく状況が生み出されていってしまうことに、本当に驚かされました。そこには、人間の行動原理や空間要素の物質性が、機能と切り離されたところで新しい時空を再構成していく、まさに僕たちが建築を通じて考えようとしているそのものが詰まっています。
濱口──ありがとうございます。柴崎友香さんとの共作『窓の観察』(2012)という本では、窓について書かれていましたね。窓は建築空間でもあるし、映画のスクリーンにも似ています。中山さんの設計された《2004》(2006)では地べたにつくられた窓から子どもが外のクローバーを見ていましたし、《O邸》(2009)でも大きなカーテンを開けると、外が間近に見える。映画の中でも、子どもが室内で遊んでいる奥をおばあちゃんが通る一場面がありました。それを観て思ったのですが、窓からおばあちゃんが見えているというよりも、おばあちゃんからこの家の中がめっちゃ見えるんじゃないかと。そのときに外と中の関係性が入れ替わるとまでは言わないまでも、外の人間が想定しないかたちで中が開かれている。ここを通った人は現実空間とは思えなくて驚くんじゃないでしょうか。中山さんにとって窓はどういう存在なんでしょうか?
中山──窓をつくると、同時に必ずあっちとこっちが生まれます。僕はこのことが、実は建築の弱点でもあると思っています。建築は自分の居場所や持ち物を守り、保証してくれるたいへん有用なものですが、同時に世界をこことそうではない場所に、ばっさりと切り分けてしまうものでもある。思い切った断捨離をするとたいへんスッキリした気分になりますが、宇宙人から見れば、単にものがここから別の場所に移動しているに過ぎない。本来なら、こことここではない場所の関係性の中で動いているはずの世界が、窓というものにはあたかもこちらだけが世界で、あっち側は忘れてよいもののように思わせる魔力があります。「宇宙人から見ると」と今言った視点を「架空のカメラ」と言い換えれば、今日のお話の意味がもう少し伝わりやすくなるかもしれませんね。例えば電車に乗っているときにカーブに差し掛かると、窓から先頭車両が見えることがありますよね。窓から自分を運んでいる乗り物の外観が見えるって、けっこう不思議だなと思うのですが、そういう、自分自身を含む世界を、外側から眺めるような目の存在を、建築を通じて設計できるのか、というのは僕にとってとても大きなテーマです。想像力の労働、そして再現性と現実性というお話を入口にここまで話してきました。観ている映画の側に何かがあるのではなく、その映画を観る私たちの側で何かが起こっている。その起こっていることを手づかみで操縦するようなこととは違う、けれども建築でしか、映画でしかない方法で、その何たるかを覗く窓について考えているのかな。
濱口──中山さんの作品について話をしていると思ったら僕の話でもあったわけですね。
中山──というところで時間がきてしまいましたね。また同じ時間を過ごすことができればこんなにうれしいことはありません。今日は本当にありがとうございました。
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2019年7月12日、TOTOギャラリー・間にて
テキスト作成=南昂希
テキスト構成=出原日向子
TOTOギャラリー・間のウェブサイトでは、中山英之による展覧会紹介動画のほか、展示・映画の様子、関連書籍の案内をご覧いただけます。
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