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この声が聞こえるかい

呪詛で動かされた日本

あの言葉は今

あまり待機児童という言葉を聞かなくなったと思ったら、大幅に減っているらしい。2016年の流行語も一時期のセンセーションでなく、社会を変える動きになったのだ。

昨年11月に行った写真展もママによる社会への働きかけだったが、トーンが対照的なのが興味深い。

他人に耳を傾けてもらうためには

想いを乗せて発信し、聴衆の感情を動かすのが秘訣だ。ジェフリー・ジェームズ氏の記事で挙げられている「感情のストーリー」の2つの例に準えるなら、それぞれこうなるだろう。

  • 「早産児は命が助かってからもケアが必要。多様な子育てに対応できる社会の仕組みを整えよう」(感情のストーリー1:恐れ→安堵→信用→納得)

  • 「子どもを保育園に預けられず、仕事を辞めることになる。国は本気で待機児童問題を解決しろ」(感情のストーリー2:驚き→興味→触発→参画)

後者の場合、国を相手にした匿名の呪詛という過激な表現方法で、増田は荒れに荒れた。勝手に産んで勝手に騒いでるヒステリー、みたいなネット民の冷笑があった。

リアルタイムで見ていた

一方で、不穏な字面に過剰反応せず、明け透けな感情の吐露に共感する人も全国にいた。私もその一人だった。2016年当時のうちの子たちは、小学1年生と認可保育園の年少児。なのに、どうして私が保育園落ちた人に気持ちを寄せたのか。

保留児童(隠れ待機児童)

下の子が待機児童にカウントされず、保留児童というステータスに置かれていた期間がある。後述するが保活の手段で、結果的に認可保育園に入れることになったので良かったが、決して楽ではなかった。

待機児童という言葉に馴染みがなければ、隠れ待機児童とも呼ばれる保留児童なんてますます聞いたことがないと思う。興味のある人は下の記事をご覧いただきたい。

保活の手段

結論から言うと、希望の保育園に空きが出るまで、本来希望しているのとは異なる園で過ごすことを選んだ。この状態の娘が、保留児童と呼ばれた。

我が家の2回目の保活の最初の壁は、まず上の子の保育問題だった。下の子の育休中は保育に欠ける状態ではないため、上の子は退園させるという習わしがあった。再度入園申し込みをする際に優遇するとの説明もあったが、不確実性に怯んでしまう。「健やかな発達のために集団生活が望ましい」との内容で今は亡き園長先生に意見書を書いていただき、通い続けさせてもらうことができた。事実、早産児にとって周りの子を見ながら成長できる環境はありがたかった。ご厚意で置いていただいている分、私が仕事をしていた頃よりも遅い登園と早い降園というスケジュールは徹底した。

上の子の保育問題が一段落してから、下の子の入園申し込みだ。息子の産休入りまではフルタイムだったから、もっとも入園優先ランクが高かった。対する育児短時間勤務をしながらの娘の産休入りでは、優先ランクが下がる。送り迎えのために短時間勤務にしているのが仇となるわけだが、子育てしていてもフルタイム勤務を続けざるを得ない人もいることを思えば、公平か。

きょうだいで同じ園に通えるかも、ライフスタイルを左右する大きな要因だ。息子の通っていた認可保育園の4月入園の0歳児枠は、娘が入園可能な月齢に達していなかった。あと1か月早く生まれていれば可能性はあったが、子どもは授かり物なので。

幼少時から「さっさとゴールするより他人に勝ちを譲る傾向があって、お人好しさがもどかしい」と親に言われて育って来た私に、焦りが初めて芽生えたのが保活だった。仕事が好きで、戻りたい。職場に迷惑をかけられない。そもそも入園が叶うのかという不安が常につきまとうプレッシャーの中では、希望の園なんて悠長な贅沢を言っている場合ではなかった。

保育園だって福祉事業。無事に生まれ、いずれ入園を希望するであろう在園時のきょうだいがいると現場の先生方にはわかっていても、年度初めに保育が必要な児童を定員最大まで受け入れる。この仕組みにおいて、年度途中に娘が月齢を満たしたところで、早々に空く見込みはない。

そこで、きょうだい同園になることは後回しにし、娘は認証保育園にお世話になった

とっくに私のライフはゼロよ

1回目の復職では元いた直接部門で、周りが私の扱いに困って新卒に逆戻りしたような感覚があった。マミートラックというやつだ。間接部門に異動しての2回目の復職では最初から主戦力として歓迎してもらえた。縁の下の力持ちとして改善活動を積み重ねた3年間は今の仕事でも活かせている。

東京の職場で会社員として全力を出し切り、16時半に退勤打刻してからは母として再び体力仕事だ。最寄駅に帰って来てから、区をまたいで3km離れた別々の保育園に子どもたちを迎えに行く様子を、放送局に密着取材してもらったことがある。

  • 18時前に娘を抱っこ紐に収め、バスで移動する

  • 18時半に上の子と手をつなぎ、バスで移動する

  • 19時過ぎに帰宅する

  • 20時前に夕食を並べる

1日を終えた私はヨレヨレで言葉少なである。

放映に驚いた友人が送ってくれた写真

きょうだい同園の兆しが見えたのは、取材を受けてから2か月後のこと。娘に待ちに待った認可保育園の内定通知が届いた。0歳児の年度末まではそれぞれの園への送り迎えルーティンが続いたが、トンネルの終わりが見えているので足取りが軽かった。その後に正式な保育所入所承諾書が届いたのに、未だに大切に保管しているのは内定通知のほう。私にとって、行政から送られてきた事務的なお手紙でなく、暮らしが上向きになる護符だった。

2年後、私は冒頭の「日本死ね」を目にした。我が家に取材に来てくれた記者さんは、こういう絶望的な魂の咆哮が聞きたくて21時近くまで我が家のリビングで粘ったのかなと思い出した。インタビューに対応している間、感情はとうに売り切れて、夜の寝かしつけのことに頭が行っていた。お迎え開始からほとんどの時間が移動だったし、私の語りも訥々としていて、撮れ高が少なくて申し訳なかった。
しかし、友人、かかりつけの小児科の先生、保育園の近所の人など、放送を見て労いの言葉をかけてくれたのも思い出した。疲れ切った様子でも、絞り出した願いは人々に届いたのだろう。これが私の感情のストーリー。

保活で培われた価値観

  • 可能性を広げる。
    希望の保育園への申し込み結果は、TRUE(入れる)とFALSE(入れない)の2値で出る。FALSEすなわちENDではない。将来にプラスになる方法で先の処理をつなぐ。

  • 時機を狙う。
    子育て支援団体からきょうだい別園の家庭の実態を知りたいとの呼びかけに応えたのがきっかけで取材が実現した。自分の小さな声でも他の人に知識や行動力を与えられることがわかった。

  • 本当の自分で。
    取材班の人に「もっと怒っていい」と言われたが、自ら選んだ最善策に怒りはなかった。テレビ映えしない映像でも、煽動的なコメントなど乗せずにお茶の間に届けてもらえて良かった。

声が聞こえなければ課題は存在しないのではなく、一人でも声が聞こえたら他にも同じように困っている人がいるはず。街行く人も、順調そうに見えて、水面下では何とか生活を回そうと必死に足掻いている。自分のやり方で声を上げれば、必ず届く。noteだってそう。

2025年も、さまざまな境遇の人たちが将来にプラスに動いていけますように。

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