武庫川
地元西宮と尼崎の境目に流れるその川には、
たくさんの思い出がある。
親父とした野球。水の石切り。
友達と遊びにいってトラックにひかれそうになった事。
中学駅伝の練習とその本番。
文化祭の演劇練習。
はじめてのハーフマラソン。
ランニングのレッスン。
こうやって思い出すと、幼少期から、定期的に武庫川に文字通り思い出がある。
どんな思い出もものすごく、数秒ではあるけど、鮮明な映像としてはっきりと覚えてる。
小学生。
知り合いのお兄さんに買ってもらった木のバットで、親父にボール投げてもらって、うたせてもらってた。
へたっぴなぼくにあわせて近くから、優しく投げてくれてた。つまんなかったろうに、ほんとにありがとね。陽が沈むまでの時間。
Nくんと遊びにいって、トラックにひかれそうになって、トラックが止まってくれて助かった事。
高校の文化祭の演劇練習では、放課後みんなで集まって、河川敷で練習してた。
Mくんがなかなかうまくセリフを言えず、何度も何度も最後のシーンをやり直した事。20時ぐらいだったと思う。
大人になって、やり残したことのないようにと、やりたい事、全部経験していこうと、フルマラソンを走る為、ハーフマラソンに参加。はじめてのハーフマラソンはみんな応援に来てくれて、無事完走できたり、それこそなつかしい友達もいて。
マラソンでは、やっぱりこの日が1番思い出深いかな。なんでも一回目の緊張感は特別だ。
ランニングレッスンでもたくさんの方とかかわらせてもらった。ほんとに、いろーんな方が来られて、いろんなお話を聞けて。楽しかったな。
そんな中、最も色濃く残る事。
駅伝。中学2.3年で走ったと思う。
練習自体で武庫川をつかったのは2年の時の方が多かった気がする。
僕が陸上部に入ったのは、ただ楽そうだったから。て理由以外に記憶がない。
当時の心理を深読みすればほかにも理由はあったのかもしれないけど、とにかく、楽そうだなとおもって入った陸上部。
一年から二年で顧問の先生が3人かわったかな。どの先生方もその先生なりのやり方で熱心に指導してくれてた。ぼくはというと、一年の頃は著しくやる気もなにもなかったが、二年の頃、バスケ部が練習の最後にグランドを10周走って終わるという事をしていたので、友達がバスケ部にいたからよく混ざって走っていたら、すこし走れるようになって。走るということがはじめて少し、楽しかった。
駅伝は、全運動部から選抜というシステムで、なんかそこに呼んでもらえて。うれしくて参加してたかな。
二年の時は結局本番にはでてないと思う。
三年になって、誰一人やりたがらない部長を張り切ってやりたいって言ってやらせてもらった。実力的に不適切だったから先生も正直、難色を示してはったけど、やりたい!でやらせてもらった。
ほどなく、新しい先生が赴任してこられて。
体育館で全校生徒の前での自己紹介の言葉は
「一緒に汗かいていきましょう」
だった。なぜか強烈におぼえている。
その先生が赴任してきてからみるみる練習がかわったし、なによりみるみるみんな強くなった。ほんとにものすごいスピードだったと思う。ぼくはと言えば、楽そうで入った陸上部。特段センスも根性もまして頭脳もなく、なのに部長だったから、ここからは逃げ出せない。ほんとにそれだけの気持ちでなんとかぎりぎりやっていたとおもう。部長として、気持ちだけは折れちゃいけないって、思って頑張ってたな。懐かしい。練習がしんどすぎたから、行く前には必ずハウンドドッグでテンションあげていってた。
思えば、音楽の力なるものをその時から、ものすごく享受してる。
ちなみに必ず聞いていたのは、15の好奇心 と ROAD RUNNER で今聞いても涙がでます。
大会当日の事は書き出したらおわらないので、端折って。
エースの友達が1区で高順位で帰ってきて、「県大会いけるぞ!」ていいによってきてくれたのすげーおぼえてる。その友達は友達でもあり僕にとって勝手にライバル視してたし、嫉妬してたな。
ぼくが走ったのは短い区間で2.7kmとかだったと思う。
短い区間。一個でも順位をあげたかった。
当日は張り切って坊主頭にしてきた。風の抵抗を減らそうとか思ったし、ちょっと面白いて思ってだと思う。
結果は2.3個順位を落としたと思う。
実力にそぐわないオーバーペースで失速。
砂場を回って折り返したと思う。そこから失速していった記憶がある。
結局目標にしていた県大会にはいけなくて、3年生はそこで引退。最後に集まって、先生のお話の後、部長からみんなに挨拶みたいなんがあった。
ぼくは人生ではじめて、大泣きした。なにも言えなかった。
忘れられない。1番は悔しかったし情けなかった。けれど、どこかホッとしてる自分もいた事もまちがいない。そして、負けたにもかかわらず、なにか得体の知れない達成感みたいなものも生まれて初めて、ほんとにはじめて味わった。
ほんとに、いろんな気持ちがごちゃごちゃに溢れてたな。
頑張るってめちゃくちゃいい事なんや、しんどくても頑張ったらこんな気持ちになれるんや。
ぼくはどうしてもその先生に認めてもらいたいと思うようになったし、ずっとおもってたと思う。
高校へ行き成人して、いつか胸がはれる、だれしもにわかりやすい、社会的な結果をひっさげて会いにいきたかった。褒めてもらいたかった。
そんな先生の訃報をきいたのは2017年。
最後まで病気と闘いながら、病院を抜け出しては陸上部の指導してたとも聞いた。
2017年という年は僕にとって、なんとも言い難いけれど、ものすごい年になってしまった。母が死に、友達が死に、同僚が死に、先生が死んだ。
いろんな事を教えてもらった。
武庫川。
42歳。夏の夕暮れの武庫川は
あの時のままだ。
2020/8/25 15:42
移動中の新幹線の中で。
.....
以前別のブログに書いたものに、加筆、修正を加えたものです。
この文章を書いた事で、曲をつくりました。
2022.1.26