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連載「十九の夏」【第九回:花火大会が終わって】

夏樹と陽菜子は、人の列の中を横に並んで歩いている。夏樹が話し出す。
「そういえば、さっき理系の人は炎色反応がどうとか言ってたけど、北村さんって理系志望なの?」
「それが、まだ少し迷っているんだよね。現役のときにすべったのは経済学部なんだけど。浪人してから薬学部とかも考えるようになって。まだ迷い中。そろそろ希望進路固めないとまずいだろーっていうかすでに一浪の夏なんだけどなー」
「夢を追うことはいいことだよ。僕らまだ若いんだしね」
「うん、今は理系科目も文系科目も満遍なく勉強している、……つもり」
「ん、つもり、なんだ?」
「だって、化学とかはともかく、数学なんてⅢなんかになると全然わけわかめだもん。微分ってなに、みたいな」
「自分ってなに、みたいな」
「なっちゃん、数学とか得意だよね。なにせ天下の大江戸理科大学生だもんね。いいなぁ」
「微分積分、線型代数。理系の学部に入ったら、とりあえずはハナからみっちりと、数学との闘いだぜ」
「うわー、むつかしそう。やっぱりあたしには理系無理かなー」

 こんどは陽菜子が話し出す。
「なっちゃんって今年の夏休み、いつまでこっちにいるのかな?」
「ううん、もうあさって月曜日の朝、また東京に帰るんだ」
「でも、大学の夏休みって長いんでしょ?」
「うん、僕らの大学は九月の末まで夏休みだよ」
「えー、せっかくの長い休みなんだから、こっちにもう少しは長くいてもいいのに」
「来週から自動車の教習所通いも始まるから」
「教習所なんてこっちにもたくさんあるじゃない」
「夏休みの残りひと月で取れないかもしれないから」
「免許取るのにそんなに掛かるんだ?」
「ううん、一応、一週間は余裕のあるスケジュール組んでもらったけど、僕トロいから時間掛かりそうで。夏休み中に間に合わないと後期の授業が始まってもまだ通わなきゃいけないし」
「なるほどね。でも、それって取り越し苦労かもよ?」
「あと、九月半ばから大学でも教職課程の講義が始まるんだよ。夏休み中にやるんだ。そいつと同時進行」
「ん、なっちゃんって学校の先生になりたいのかな?」
「そういうつもりは特にないし、実は必修科目でもないんだけど。そういうのも履修しておいて損はないからさ」
「んー、あたしだったらなっちゃんみたいな先生に数学とか教わりたいかなー。大学生としては夏樹さんが先輩ですから!」
 陽菜子は「夏樹さん」という、いつもの「なっちゃん」と敢えて違わせた夏樹への呼び方にアクセントを置いてそう言った。

 二、三十歩ほど足を進めるくらいのしばらくの間の後、陽菜子がまた言葉を投げる。
「でも、なっちゃん、相変わらず真面目なんだねー」
 陽菜子がさらに続ける。
「あたしだったら、苦労して勉強した末、晴れて自由の身になれた大学の最初の夏休みなんだし。ふた月あれば思いっきり自分の好きなことしまくる!」
 こんどは「自由の身」のあたりで語気を強めた。浪人生であるがゆえに、まるで今は自由を拘束されていることをアピールするかのように。それに対して夏樹はすばやく質問を投げかける。
「好きなことって何?」
「まぁ、いろいろと。……逆に聞くけどなっちゃんだったら何?」
「まぁ、いろいろと」
「あはは。なんでオウム返しするのー」
「来年の夏は、思いっきり好きなことできるといいね。ひなちゃん」
「はーい、べんきょうがんばりまーす。なつきせんせーい……」
 いかにも棒読みと言った感じで陽菜子はそう言い放った。
 そして間髪入れず、口調を一気に強めて指摘する。

「……って、今あたしのこと、ひなちゃんって呼んだ」
「……ははは。何年ぶりだろうね。北村さんのこと、ひなちゃんって呼んだの」
「……うん、びっくりしちゃったよ。ほんと、何年ぶりかなぁ……」
「まぁ、僕らまだ十九年しか生きてないからね。そんなに長い年月でもないよ」
「むぅ、何言ってんのかなー……。だいたい、あたしはまだ十八だし」
「へぇ、そうなんだ。じゃあ、ひなちゃんは僕の妹だな」
「あたしも今年十二月に十九になりまーす! 同級生でーす! 浪人生だからってバカにしないでくださーい!」

「北村さん」のことをさり気なく「ひなちゃん」と呼んであげること。これは、夏樹のある意味「きょうのさくせん」であった。
 さり気なく呼んであげたつもりだったけれど、夏樹の心臓はバクバクしていた。ハートブレイクになりかねない、夏樹の企てたふたりのあいだのアイスブレイク作戦。こいつが、うまくいったのか、いかないのか。それを考える前に夏樹の頭は半分真っ白になっていた。

 それから、しばらくは無言のうちに五十歩も百歩も歩みを進めていく。頭の中が半分真っ白だったのから少しは落ち着いた夏樹はふと歩みを止めた。いつの間にか人の群れから抜け出していた。すっかり人はまばらになっている。
「どうしたの? なっちゃん」
 陽菜子もこう言って歩みを止めて夏樹と並んだ。

 夏樹は改めて陽菜子を呼ぶ。
「ひなちゃん」
 陽菜子から夏樹を呼び返す。
「なっちゃん」
 互いに相手を呼び合いたい、呼び合ってみたい。夏樹はただそれだけのために立ち止まった。幼馴染だけど、不思議な緊張感。ただ名前の呼び方だけなのに、まるで一線を超えてしまったかのような。あくまでも初なふたりのやりとりである。特に夏樹。

「でも、なんかうれしかった」
 陽菜子からの反応があった。夏樹はまだ戯けたつもりで返す。
「ん、何がー?」
「……、小さい頃みたいに、ひなちゃん、って呼んでくれたこと……」
「それに気づくのに十秒かそこら掛かったよね」
「うん、幼馴染だもん……」

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