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言葉の粒度と好き嫌い
先日、履修主義と修得主義、習得主義について少し考える機会がありました。
その時は、修得主義の皮を被った履修主義的デジタルドリルへの怒りしかなかったのですが、そもそもこの二項対立、乱暴じゃなかろうかと思うのです。
考えようによっては、私はどちらにも賛成できるし、どちらにも嫌悪を感じることができます。
以下、いちゃもんをつけてみようと思います。
普通の公立校での研修や講話で伝え聞こえてくるレベルだから、ほんとうの専門家にとっては何言ってやがるってこともたくさんあると思います。
修得主義について思うこと
まず、何をもって修得とするのかを外部に委ねすぎていないでしょうか。
これは「教師が外部に」、「学習者が外部に」、完全信頼・委託していないだろうかということです。
次に、修得主義の皮を被った履修主義が、特にデジタルドリル利用で起きていないでしょうか。
診断テストもなしに、「何年生の何番までを、いつまでにクリアしましょう」「一日一つは宿題でデジタルドリルを進めていきましょう」なんてやっていないでしょうか。これは修得主義でしょうか。うちだけでしょうか。地獄でしょうか。
最後に、学習者にとって修得することそのものが学ぶ目的たり得るでしょうか。
「診断テストをやって、できないところを見つけて、できないところができるようになる。」それは別に悪いことではないけれど、さほどよいことでもないのではないかと思うのです。
修得と、血湧き肉躍る学びの感覚・モードが両立しているでしょうか。脳が活性化しているでしょうか。
履修主義、これならいいのでは?
上のことを考えていくと、上のような修得主義ではできない学びが履修主義の中に隠れている気がします。
そして、それはもはや履修主義ではないのだと思います。
何回休んだらアウトとか、同じ場で同じことを必ずしもやらねばならぬとかいうことではないのだと思います。
自分がその学習財について、もの思ったことをどれくらい大事にしたりぶっ壊したりできたかに添えるとよいのではないかと思います。
修得のことはひとまず置いて、その学習財に出会い、わくわくする感覚・経験の重視。
これは今流行りの修得主義をおしていくと大事にされない恐れがあるのではないでしょうか。
もちろんある程度の理解や考え方の修得をベースにした方がより楽しめるのでしょうけれども。
この辺りの価値観を丁寧に対話していかないといかんのではないかなぁと次年度の色々な教育計画を見ていて感じるところです。