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「貨幣」概念に問題あり?という話(前)
同時に「マルクス経済学批判(資本論)の検討 - MMTを媒介に」の第五回も兼ねましょう。
しかし、ごめんなさい!
第一回の続き(ロビンソン犬の物語)を書き進めたいのですが、そこで書きかけたこと(マネーをプロセスとして把握する試み)の「前に」語っておいた方が良いであろう話を見つけてしまったのでその話をします
\(^o^)/
つまり「マネー」あるいは「貨幣」の概念を実際に把握しなおすその前に、把握し直すという操作がなぜ必要で重要なのかの説明をしたい。
ええ、そういう話ができればよいのは薄々感じていたのですが、その方法が皆目わからなかったのです。
でも後に書くように、なんとなく見て来ました。
近代物理学の黎明期における「力」の概念の混乱と似たものとして語る手がありそう。
もし未来の歴史家が、紀元2024年という今日の時点の経済に関する諸議論を分析するならば、まだ「貨幣」の概念が共通のものとして定式化することができないために、互いに噛み合わない混乱した議論を続けていたのだなと見えるだろうと思われます。
「貨幣」の概念的混乱の確認
この現代の混乱ぶりを詳しく広く叙述するには無限に近い時間が必要そうなので、ここではMMTに関連する概念上の混乱に焦点を絞りましょう。
思いつくものとして、「MMT現代貨幣理論入門」という翻訳書における「money」という語の混乱が挙げられます。
その件を糾弾しようとしたこともありました。
このようなこと(たとえば"currency" を「貨幣」と訳してしまうことによって意味が大きく変わってしまう)が起こる原因を、翻訳者の能力不足や知識不足よりも、歴史的な制約による混乱としてみるという感じです。
この本の冒頭に「定義」というページがあり(学術書ではよくあるスタイルです)、「貨幣(money)」の項と「IOU」の項に翻訳者の注釈が描かれています。
いかにも「苦労」されていることがわかります。
「貨幣(money)」は、一般的、代表的な計算単位をいう。特定のモノ──硬貨や中央銀行券──を指す言葉としては使用しない。
いわゆるモノとしての貨幣は具体的に特定される。硬貨、銀行券、要求払預金などがこれに当たる。この中には手で触れるもの(紙幣)もあるし、バランスシートに電子的に記入されたもの(要求払預金、準備預金)もある。従って、「貨幣証券(money tokens)」とは「貨幣を単位とした債務証書」の略称に過ぎない。これは、計算貨幣を単位とした負債の記録──金属、紙、粘土板、木の棒に記録されてきたが、今日では大部分が電子的な入力という形で記録される──なので、「貨幣記録(money records)」と呼ぶこともできる。
[訳注:原著本文では、上記の定義にかかわらず、「計算単位としての貨幣」「モノとしての貨幣」の2つの意味で "money" が用いられている一方で、「計算単位としての貨幣」を意味する "money of account" という概念が別途導入されるなど、定義と本文が必ずしも一致していない。そこで本訳書では、「計算単位としての貨幣」を意味する語句については原則「計算貨幣」と訳出する一方で、上記 "money tokens" や "money records" も含めた「モノとしての貨幣」を意味する語句については単に「貨幣」と訳出している。なお、「計算貨幣」は、ジョン・M・ケインズ『貨幣論Ⅰ』(ケインズ全集第5巻、東洋経済新報社)でも "money of account" の訳語として用いられている]
「IOU(I owe you=私はあなたに借りがある)」は、計算貨幣を単位とした金融債務、負債、支払義務であり、それを保有する者にとっては金融資産である。IOUは物的証拠(例えば、紙に書かれたもの、硬貨に刻印されたもの)が存在する場合もあるし、(例えば、銀行のバランスシートに)電子的に記録されることもある。もちろん、IOUは発行者にとっては負債だが、保有者(債権者とも呼ばれる)にとっては資産となる。
[訳注:"IOU" もまた、原著本文では「負債」「(負債を表示した)債務証書」の2つの意味で用いられている。そこで、前者の場合には「負債」「債務」、後者の場合には「債務証書」「借用書」などの訳語を文脈に応じて使い分けている]
実際のところここで原著者は、いわば money 概念そのものの再定義を行っているのですが、その論理的な意味をいきなり読み取ることは実はかなりむつかしい。
なので今のワタクシはこれを改めて眺めてもそれほど腹立たしい気持ちにはならなくなっています。
そうなったきっかけは、日本語圏だけでなく、英語圏内においてもハッキリした概念把握上の対立があったこを知ったことでした。
MMT vs ザーレンガ(貨幣改革論者)にみる概念上の齟齬
公共貨幣を提唱している山口薫が著書の中で、レイとザーレンガの衝突のエピソードを紹介していて、ワタクシはこれを知ることによって、概念の定義は(人によっては)一丁目一番地の問題になるのだと気づかされたという次第です。
引用しましょう。
MMTグループとの決別
2012年の貨幣改革のシカゴ国際会議のとき、MMTグループはその年に出版された著書『MODERN MONEY THEORY』(ランダル・レイ著)を会場に展示して販売していた。その日本語訳、『MMT現代貨幣理論入門』(東洋経済新報社、2019年)の出版に先立つこと7年前である。同書の出版で初めてMMTグループのお金に関する定義が一般読者にも明確となった。一言で言うと「money cannot be a commodity; rather, it must be an IOU. お金は商品ではない、むしろIOU(借用証書)である(原書ⅺページ)」というものである。私たちの貨幣の分類表では、お金は債務貨幣であるということになる。すなわち、お金は商品貨幣ではなく、銀行券や国債のような債務証書であり、中央銀行や政府のバランスシートに計上される負債にすぎないと主張する。さらにMMTの先駆者であるミンスキーを引用して「誰でも、社会的会計単位で表示されるIOUを発行して、お金を創造することができる(原書272ページ)」とも主張している。 お金は商品貨幣ではないという点では、貨幣改革グループの見解と同様であるが、「お金はIOUであり、誰でも創造できる」というMMTの定義に激しく異を唱えたのがステファン・ザーレンガ米国貨幣研究所所長である。彼は前述の大著24章で「お金はすべて債務であるとする派閥」という見出しで、こうしたMMTの定義を一派閥の誤った貨幣観にすぎないと痛烈に批判していた。公共貨幣の過去数千年以上にわたる長い歴史的存在を考えれば、IOUの借用証書のみがお金であるとする定義はザーレンガには到底受け入れられないものであった。会場でMMTの研究者とザーレンガ所長が唾を飛ばすような激論、批判を展開し始めた。
いかがでしょうか。
MMTの立場では、銀行預金は納税手段として政府に受け取られる以上最重要な「マネー・トークン」のみなされます。
しかし公共貨幣論者の立場では、現代の銀行預金はもちろん銀行券も「真の貨幣」ではなく、「債務貨幣」と呼ぶべきものに分類されるでしょう。
日本語の「貨幣」の意味も一定ではない
また、腰を落として考えれば日本語の「貨幣」も時と場合で広がりが異なりますよね。
銀行預金はもちろん日銀券(紙幣)も法律の世界では「貨幣」とは呼ばれないようです。
この条文を読めば明らかですが、ここで「貨幣」は金属硬貨のことであり、日銀券(紙幣)は含まれない。
(貨幣の製造及び発行)
第四条 貨幣の製造及び発行の権能は、政府に属する。
2 財務大臣は、貨幣の製造に関する事務を、独立行政法人造幣局(以下「造幣局」という。)に行わせる。
3 貨幣の発行は、財務大臣の定めるところにより、日本銀行に製造済の貨幣を交付することにより行う。
4 財務大臣が造幣局に対し支払う貨幣の製造代金は、貨幣の製造原価等を勘案して算定する。
(貨幣の種類)
第五条 貨幣の種類は、五百円、百円、五十円、十円、五円及び一円の六種類とする。
また「貨幣」の発行は政府の役割です。
しかし、「現代貨幣理論」と言うときの貨幣(money)がこの意味であると思っている人はいないですよね。MMTの命名由来はケインズの言葉ですが、ケインズの言った money も法の「貨幣」とは異なります。
また経済学で「マネーサプライ」「マネーストック」が「貨幣量である」というときの「貨幣」も違いますよね。
アメリカはどうでしょうか?
合衆国憲法にマネーの規定がある
合衆国の場合は、憲法に money という語が登場します。
[The Congress shall have Power . . . ] To coin Money, regulate the Value thereof, and of foreign Coin, and fix the Standard of Weights and Measures; . . .
法的な「貨幣(money)」発行権は、政府でなく議会(The Congress)にあるんですね。
ケルトンらMMT論者の議論いおいて、しばしば憲法や議会の力が強調されるの背景としてこのことがあるわけです。
上記のザーレンガも著書「失われた貨幣の科学」(なお本についてはワタクシがこんなページを作り始めています)の中で次のように書いています。
A society such as the U.S., depending on private bank credits in place of government-created money, is operating in moral quicksand. It has established a special privilege of power for those private parties issuing the credit - the bankers. As Prof. Soddy and others have shown, this cannot help but do serious harm to the population as a whole. It is contrary to the spirit of the U.S. Constitution, and, if one considers that this monetary privilege amounts to the formation of an aristocracy, it is also contrary to the letter of the Constitution {Art. I, Sect 9).
米国のような、貨幣の創造が政府の代わりに民間銀行の信用に依存している社会は、道徳的に危うい状態にある。そのような社会は、信用を発行する民間の当事者、つまり銀行家たちに特権的な力を与えている。ソディ教授やその他の専門家が示しているように、これでは人々の全体に深刻な害を及ぼすことは避けられない。これはアメリカ合衆国憲法の精神に反するものであり、この貨幣的な特権が富裕階級の形成に相当すると考えるならば、憲法の条文(第1条第9節)にも反するものである。
では、このような状況下でMMTの理解を推進するために、わたしたちはどうしたらいいのでしょうか。
それは次のように考えることだと思います。
マネーの科学は18世紀の力学の状況に近い?
経済学は物理学を模しているところがありますが、ちょうど300年くらい遅れていると考えるのが妥当だと思うようになりました。
それは有賀暢迪さんの「力学の誕生」を読んでしまったから!
ワタクシ「MMTは19世紀の熱力学の展開に対応させて考えたい」などと言っておりましたし、それは悪くないと今でも考えるものでありますが、これをやるためにも、熱「力学」の前に「力学」、さらには「力学」における「力」の概念がどのように発展したかを「貨幣」の概念と対比しつつ追跡しておくのが有意義であろうとも思うようになったのです。
力学にしても、当初の「概念上の混乱期」と言うべきものを経てからようやくいま高校や大学で教わるような形に整備されてきたのです。
次回それをやってみましょう。