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MMTが「不明瞭」で「政治的」な理由
「新しいMMT入門」の第四回。
「経済学者は悪でなく凡庸」と見るビュー
前回ぼくは、犬キャラを徹底させて「経済学者たちがMMTをわざわざ捻じ曲げて広告することに余念がないのは政治的な理由、出世欲(猟官活動など)、あるいは何かの陰謀では?」という説を採り、具体例としては現日銀審議委員の野口旭の論考「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(1)─政府と中央銀行の役割」を取り上げて検討しました。
これは経済学者悪人説としましょう。
冷静キャラの方のぼくとしては、今回別の説を提示しようと思います。
早速ですが、野口と同じリフレ派の田中秀臣は最近このように書いています。
不明瞭な発言と既存のすべての経済学との差異の強調、さらには政治的ふるまい、ということになると思う。
浅田統一郎他のケインジアン動学モデルによるMMT(現代貨幣理論)解釈への感想
学者にしてはちょっと言葉が強すぎる感じですよね。
なぜ彼はそうなるのか?
それはズバリ、別のビューが成立することを知らず、今のビューで世界をすっかり記述することができると信じているから。
だからこそ彼らにはMMTの方が政治的、党派的に見える。
それだけかもしれません。
冷静なぼくとしては、彼らの善性を疑うのはよくないと思う。
経済学者は、たんに、認識に根本的な問題があるため、その知的能力(?)を間違った方向に使っているという説明を採ります。
ミッチェルがときどきそういう言い方をしているんですよね。
そうですねえ、経済学者ってアイヒマン。
アイヒマンにも対立する二通りの見方があります。
アーレントが描くアイヒマンのような、システムに従順な凡庸な人たちなのか。
それともエルサレムの法廷でアーレントを欺いた、凡庸な哲学者のはるか上を行く極悪人なのか。
前回は後者の悪人説を採りましたので、今回は前者の「凡庸」説で行きましょう。
もしかして途中でぼくの「犬的な側面」も出てしまっていたらごめんなさいワン。
野口は上の記事で次の言い方をします。
まず、MMTは他の経済学を「不埒に」一括りにしている、と。
つまりMMTにおいては、マネタリズムや新しい古典派のような反ケインズ的マクロ経済学と真正面から闘い続けてきた彼ら新旧のケインジアンたちが、不埒にケインズの名を語る新古典派的亜種として一括りで敵側に追いやられているのである。
つまりMMTにおいては、マネタリズムや新しい古典派のような反ケインズ的マクロ経済学と真正面から闘い続けてきた彼ら新旧のケインジアンたちが、不埒にケインズの名を語る新古典派的亜種として一括りで敵側に追いやられているのである。MMTはしばしば、ニュー・ケインジアンも含む「主流派」の側から、その強い党派性を指摘されている。しかし、それは実は、MMT自らが意図的に設定したこの「戦略的対抗軸」の反映なのである。
MMTはしばしば、ニュー・ケインジアンも含む「主流派」の側から、その強い党派性を指摘されている。
同記事から
さて経済学には、何やらマネタリズム、新しい古典派、新ケインジアン、旧ケインジアン(あとポストケインジアンというのもいる)が実はあります。日本ではマルクス系もありますよね。
MMTはそうした全経済学を「批判」するのです。
わからなさのメカニズム
彼らの「批判」は「わからなさ」であり、このメカニズムは、第二回で説明した「シルエット錯視」で説明できるというのがこの「新しいMMT入門」の方法論。
野口の経済学分類を使うとこんな感じです。
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こうしてみると、右足軸ビューからするとケインジアンもマネタリストも新しい古典派も野口の言う通り「不埒」であることがわかります。
また野口はこう書きます。
強調はぼく。
モズラーのSoft Currency Economics II は、ほぼ全編がこの問題の解明に当てられているといってよい。しかしながら、レイのModern Money Theoryとモズラーの書籍の説明は必ずしも明快ではないので、以下ではもっぱらMacroeconomics第20章第4節の説明を援用する。
かれらはよくMMTの言っていることがよくわからないと言い、それをMMT側の責とする。
それはこういうこと。
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金融資本の奉仕者「野口旭」の読解をワタクシが鮮やかに分析\(^o^)/
前回、犬キャラのときのぼくのビューからは、野口のふるまいは出世欲(猟官活動など)、あるいは何かの陰謀では?と疑いました。
もちろんその可能性は高いし、特に田中(というか、掲示板時代から自己顕示欲は強いわプライドが高いわ、他人を見下すわ業績はないわ無意味な文章量は多いわ。。。)。
おっと別の説でした\(^o^)/
問題の野口の記事から「Macroeconomics第20章第4節の説明を援用」していた箇所を、改めてもう一度。
レイのModern Money Theoryとモズラーの書籍の説明は必ずしも明快ではないので、以下ではもっぱらMacroeconomics第20章第4節の説明を援用する。
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この表は、中央銀行と民間銀行のバランスシートによる資金循環分析を用いて、政府が行う赤字財政支出がどのようなプロセスを経て政府部門と民間非政府部門の間の資産負債の変化を引き起こすのかを明らかにしたものである。それは、以下の3段階からなっている。
■ステージ1:政府が100の赤字財政支出を行うために、同額の政府預金を中央銀行に創出する。
■ステージ2:政府が100の支出を行った結果、支出の支払いを受けた個人や企業が民間銀行に持つ銀行預金が100だけ増加する。その結果、民間銀行が中央銀行に持つ準備預金が100だけ増加する。それは、政府が中央銀行に持つ100の政府預金が、民間銀行が中央銀行に持つ100の準備預金に振り替えられたことを意味する。
■ステージ3:法定預金準備率が仮に10%であるとすると、ステージ2の結果、民間銀行は90の超過準備を持つことになる。そこで民間銀行は、その収益の得られない超過準備を処分して収益の得られる国債を中央銀行から購入する。その結果、中央銀行の保有する国債と民間銀行が中央銀行に保有する準備預金は90だけ減少する。
これらのプロセスから、政府が100の赤字財政支出を行った場合、最終的には、民間部門は10の準備預金と90の国債という形で、必ず同額の資産を得ることになる。
若干の補足をしておこう。まずステージ1では、政府が財政支出の便宜のために国債を見返りに中央銀行に政府預金を創出することが想定されている。これはあるいは、多くの国で禁じられている「国債の中央銀行引き受け」に相当するように見えるかもしれない。しかしながら、中央銀行は同時に、制度的には必ず「政府の銀行」の役割を果たさなければならない。それは結局のところは、「中央銀行が国債(政府の債務)の見返りに政府に預金を与えている」ことを意味する。仮に政府が「財源」の調達のために支出の前にまずは民間銀行に国債を売却したとしても、Modern Money Theoryの第3章に示されている通り、最終的な結果は同じである。
以上が野口の「読解」。
犬としてのぼくは怒ってたが、冷静なぼくは逆に、ここにこそ野口の左足軸ビューが鮮やかに出ていると見えるから面白い。
その人の世界観は、誤読ぶりにこそ現れてしまう。
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…
というわけで、冷静なぼくとしては野口というより経済学がダメですね。
MMTを経済学の中で系統分類する愚
そういえば経済学者の中にはMMTをポストケインジアン系に位置づける人たちが散見されます。
学者として代表的なのはたとえば内藤敦之でしょうか。
レイの入門を監訳した島倉原という人もそうしています。
これは間違っていて、ポストケインジアン系とされるミンスキーの弟子だったレイが、1990年代の途中でモズラーに出会ってからMMTへの「転向」を果たしていることを見落としています。
まあ、人間の言葉(理論)はぜんぶ間違っているわけではなくて、アイヒマンだって正しいことも言いますよね。
こうした見方は「有害」です。これだとビューの違いが隠蔽されてしまう。
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なおミッチェルは先日ブログでこの見方を明確に否定(自分はケインジアンを名乗ったことはないし、そのつもりもない)していました。
そう分類してしまうのは、分類する人がこうだからです。
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この「新しいMMT入門」の二回目では、相容れない対立するビューが確かに存在することを練習してみることを読者の皆さんにお勧めしました。
MMTを理解するコツは、そのときと同じ「意識の力」を意識的に行使すること。そうぼくが言う意図がわかったのではないでしょうか。
しかし、いったい「右足軸ビュー」の本質は?
「金利」が焦点の一つなのは間違いなさそうです。