Gesellschaft と Gemeinschaft, そしてWesen

資本論をnyunとちゃんと読む <1-3 #Gesellschaft>関連

Gesellschaft

 本文<1-3>では日本マックス・ヴェーバー研究ポータルというこちらの文章を紹介したが、発展的に。

 こちらの方がちゃんと書いてあるか→ 種村剛さんによる「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」

 さらに
岩崎信彦「マルクスにおけるゲマインシャフトとゲゼルシャフト 序説」

 そもそもテンニースの著書「ゲゼルシャフトとゲマインシャフト」がマルクスからの発展形なのである。

 マルクスは下の図式の発展を認識していたと岩崎は書くがその通りであろう。

Gemeinschaft(Gemeinwesen)「共同体」
 ↓
Gesellschaft「社会」
 ↓
vergesellschaftete Gemeinschaft(Gemeinwesen)「社会化された共同体」

 ここで指摘しておきたいのは Gemein-wesen のこと。
自分としては「共同体」じゃなくて「共同する存在としての人類」と理解している。

 この Wesen について少々説明しておきたい。

Wesen のむつかしさ、大切さ

 ヘーゲルでも超重要で、第一義は「物事の根本的な性質」でしょう。しかし、適当な訳語がないのです。英語にもならない!

 内田義彦さんはWesenという言葉を英訳するときの苦労に関しイギリス人翻訳者マーチン・ミリガン(マルクスの草稿などを英訳した人)の言葉を紹介しています。

 ヴェーゼン、このドイツ語の意味と同じ意味を持った英語はない。ヴェーゼンは一つには本質(essence)を意味し得るので、マルクス訳者のなかにはまるでこれ以外の意味があり得ないかのように取り扱っている人もある。だが (中略) 第二に、しかしヴェーゼンはまた、ある「存在」(a being)というきわめて平凡なドイツ語である。たとえば、ein menschliches Wesen は、英語のa human beingであり、das höchste Wesenは、the Supreme Being(至高の存在、神)である。第三に、ヘーゲルが指摘しているように、ヴェーゼンは「日常生活ではしばしばただ、ある総括あるいは総体の意義しか持たないのである。したがって、たとえばZeitungswesen(新聞)、Postwesen(郵便)、Steuerwesen(租税)等々と言われるが、これらの言葉のもとに解されるのは、ただ、これらの事物が個別的にその直接性においてでなく複合体として、したがっておそらくまたさらにそれらの事物のさまざまな連関において取られるべきだというだけのことである。

http://classic.music.coocan.jp/_book/shakaishiso/uchida/103.htm

 内田さんも書かれていますが、日本語圏ではこのWesenという感覚が希薄なので、研究においてもちゃんと受け取られいないことが多々あります。
 厳しく言えば、上の岩崎さんもそこが雑になっているとワタクシは思うんですね。

 確かハイデガーも人を「考える存在(das denkende Wesen)」と書いたと思いますが、Wesenはそういう「感じ」です。

 さて、上記のマーチン・ミリガンが Wesen に触れているものととして、こんなのも見つけてしまいました。

なお英訳者 Martin Milligan は次のようにいっている: Gattungswesenは フォイエルバッハの用語であって,Gattung とは「全体としての人類 mankind as a whole」「人類という種 the human species」を. Gattungswesen とは「人間の本質的本性 man's essential nature」「人間的本質 menschliches Wesen」を指している,と。
(K.Marx. The Economic & Philosophic Manuscripts of 1884, International Publishers. Kew York 1964, p. 187)

https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DBd0240502.pdf

 偉いでしょう\(^o^)/
(この論文の本文にもこの論文の著者が Wesen についていろいろ考えている部分がありますので、お暇ならどうぞ!)

 最後に、ヘーゲル「小論理学」

 本質(Wesen)は媒介的に定立された概念 (gesetzter Begriff )としての概念である。 その諸規定は本質においては相関的であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ反省したものとして存在していない。したがって概念はまだ向自(Für sich)として存在していない。本質は、自分自身を否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するものである。もっとも、この他者そのものが有的なものとしてではな く、定立され媒介されたものとして存在している。

 「他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するもの」!

 そう、資本論における「商品の交換価値」がこれですね。

2/8 追記

 上でマーチン・ミリガンが「ヘーゲルが指摘するように」とは、小論理学の次の一節。 

 ――日常生活で Wesen という言葉が用い られる場合、それはしばしば総括とか総体と かいうような意味しか持っていない。例えば 人々は Zeitungswesen(ジャーナリズム)、 Postwesen(郵便制度)、Steuerwesen(租 税制度)、等々と言う。そしてその意味する ところは大体、これらの事柄がその直接態に おいて個別的にでなく、複合体として、そし てさらにまたさまざまな関係において理解さ れねばならないということである。

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