「モズラーの名刺」のまともな解釈
「新しいMMT入門」の第9回!
ここまでいろいろ書きながら自分の思考をまとめてきた感じでしたが、ようやく理論的な最終形のイメージができてきました。
もったいぶらずに、それを先に示しておきましょう。
それはマクロ的(巨視的)な描像とミクロ的(描像)の二つから成り、この二つは相似の関係にあります。
経済学者または経済学アタマの人たちは、よく「マクロではミクロの常識と反対になる」といいますが、ええ、経済学者の言うことのなので、それが間違いだと思っておきましょう。
では、マクロな描像から。
前回説明した、一国の経済を一人のランナーに抽象する、モズラーのアイデアを敷衍したもの。
マクロ的描像
このマクロの描像では、外側の「世界」、そして「仕事」を強調しています。
海外の強調について
国家は地球上の存在であり、国家自身は外側と内側に影響を及ぼし合っているので、たとえば「国内で国債を発行しているかどうか」問題は、ちっとも普遍的ではない、非歴史的で些細な問題にすぎないからです。
日本は何といっても「同盟国」アメリカの影響を受けています。
下は三國陽夫氏による「米国がタダで無限に買い物できる仕組み」の図ですが、これは的を射ていると思っています。
このメカニズムによって日本の労働者はどんどん貧しくなっているのであり、消費税やさまざまな「民営化」路線はこのメカニズムを助長しているという話をちゃんとできるようにしたい、というのがここ「新しいMMT入門」の目的の一つなので。
仕事の強調について
国の貨幣制度は、王(統治者)が人々から仕事を取り出し、それ(仕事そのものやその成果物)を使って国家を良くする営みに他なりません。
ぼくたちも「日々の我々自身の仕事」が世界の中でどのように位置づけられるかをキチンと考えたいものです。
というわけで、ミクロ的描像をクローズアップしましょう。
モズラーの「名刺の比喩」を「王(親)が取り出す仕事」に注目して分析し直したものです。
ミクロ的描像
「モズラーの名刺」のありがちな(知性が足りない)読み
まず、日本によくある「モズラーの名刺」読みの代表例として森永康平のものを引用してみます。
さらに
これ(納税手段だから価値が生まれる)もモズラーはもちろん元のMMTの人たちが決して言わない言葉だと思います。
ここで注目すべきは「仕事」の方なんです。
「モズラーの名刺」を「王がみんなの仕事を取り出し社会共通物を設置する」話として理解する
下図これミクロの描像になります。
このように、三人モデル(何なら親子の二人)でも「社会共通財」を考えることができる(何なら親子二人もでるで十分)、というのはこのモデルの破格の強さです。
革命的すぎて誰も気づかない。
通常の経済学ではなく、むしろ批判になっている
たとえば開発経済学を学んでしまった人は、社会共通資本の形成の説明が、異なる二部門モデルを設定することから始められるということをよくご存じ。
「農業部門と工業部門」、「第一次産業部門と第二次産業部門」、あるいは「投資部門と消費部門」(宇沢弘文流)というように。
それらはかなり高度な数学を必要とするので、彼らは偉くなった気になるのですが、なんのことはない「社会共通財は人の仕事でできているし、人の仕事以外から湧き出してくるものではない」ということにさえ注意を払えばそれは自明です。
はい、ぼくにはもはや宇沢もセンも知性はあるけれどバカな人たちに見えるのです。今となっては。
単に経済学が間違いで、言ってみれば天動説で宇宙を見るから複雑な計算が要るようになるというだけで。
たとえばGDPで経済を見る愚
コロンブスの卵に至らない経済学の例として、経済学者が大好きなGDP概念があります。
ちょうど先日、経済学者の田中靖人さんからこんなレスをいただいたのですが。。。
元のマンガを再掲しますが、GDPで考えると「総生産」は165nyunであっています。
ぼくはよく、付加価値ビュー(経済学)と剰余価値ビュー(マルクスやMMT)の違いを強調していますが、剰余価値ビューからすれば「三人の総生産」は三人の総労働時間で測られるものなので、「みんな8時間くらい働くのかな?」とか「10時間くらい?」、それとも「消防士だけがたくさん働いている?」といように、さまざまなケースが想像されます。
どちらから考えるべきかはぼくには明らかなんですけどね。
マルクスの「剰余労働」も同様
実はマルクスの資本論の全体、つまり剰余価値の議論も読み方’(読まれ方)も全く同じです。
それは資本論が未完成だったことと大いに関係しているので、わざわざ複雑に読んでしまう人が出てくるのもまあ無理はないのと思いますよ。
しかし、人間の可能性の全体と、必要労働、剰余労働の分割を考えるのがいちばんスッキリした読み方なのに、それに気づかないのはいい加減にした方がよい。
課税と財政支出を「公的な仕事を取り出す操作」と見る
MMTのミクロな描像に戻りましょう。
メカニズムは前回と同じです。
メガネザルはどうして、女王に仕事を献上するのでしょうか。
これを反対から見て、女王はどのようなメカニズムで社会から仕事を取り出すのでしょうか?
はじめ彼らはそれぞれのドラッグ(抗力)に抵抗しつつがんばって生きています。
女王は思います。
彼らは共同さえすればドラッグを小さくすることができて、もっと自由に安心して、本来の彼ら自身を生きることができるようになるのに。
王は彼らに税の圧をかけます。
税を支払わないと本当に死んでしまう!
この状態を作ってから、「みんなのための労働」と「税の負担を除去する印」と交換することを約束する。
このままでは死んでしまうと思った最初の誰かが必ずこれを受け取るでしょう。
ここで起こることは魔法のようです。
「税の負担を除去する印」が庶民の手に渡った結果、社会全体の「税の圧」はゼロになっている。
公共財ができ、ドラッグが消えている(軽減されている)
「税の負担を除去する印」は一定の労働時間を表す印として流通しうる。
税から自由になったメガネザルは「税の負担を除去する印」を持っている必要がないので、女王が自分にしたのと同じことをほかの誰かにすることができます。
犬がいましたね。
最後、王が犬から税として通貨を回収すれば、一連のプロセスが完了します。
プロセスが始まる前(Before)と最後(After)を並べます。
これこそ「健全」な経済成長であり、貨幣制度を手にした人類が古代から成し遂げてきたことに他ならないはずです。
マイケル・ハドソンはそれを確かめたくて古代の貨幣システムを研究しましたし、晩年のマルクスが西洋以外の社会システムに興味を抱いた動機もこのあたりにあるとぼくは考えています。
まとめ
まとめとして、このMMTのこのビューが「税」や「財政支出」に関する通常のビューとまったく異なっているということを改めて確認しておきます。
通常のビューとの本質的な違いはどこにあるのでしょうか?
突き詰めればそれは、「税」と「財政支出」、あるいは「経済成長」や「資本の蓄積」を一体のプロセスとしてみるか、わざわざ分割してみるかの違いだと言えるでしょう。
あえて引用はしませんが、教科書や財政学の先生や財務省(政府)やマスコミは税の目的をどのように表現しているかを振り返ってみてください。
第一にそれは「財源調達」であり、付随するものとして「格差是正」「景気調整」の機能が挙げられているはずです。
最後に、今回示したMMTのマクロとミクロの描像がどのような議論ができるかを思いつくままに挙げてみます。
MMT的な描像の意義
政府と内国と海外の均衡
ジョブギャランティの原理
個人のケイパビリティと社会
税が生み出す「財政スペース」とその除去
価格が決まる(動く)メカニズム
「支出が先」の原理
政策金利の無意味さ
支出の制約は物質的条件であるということ(これを満たすとインフレになるだけ)
為替と内外価格差の話
GDPと幸福度が一致しないのは当然
社会公的資本の意義とその形成
階級分裂のメカニズム
貨幣と文明
次は何の話をしましょうか?
数回前に、ぼくはMMTとマルクスの理論を矛盾なく接続するのは容易だと宣言しましたので、それをやってみることにしようかな。
簡単に言えば、王の通貨を手にした一部の人がそれを使って「持たざる人たち」を集めて王にもたらすべき「仕事」と、そこから得られる富を独占するのです。
その状態になると王が公共物を作り出す「仕事」がすっかり足りなくなりますし、それどこか彼らはかつての人々の仕事の成果を政府から「買い取って」それを金儲けの手段にし始める。
詳しくは次回。
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