さくら、さくら
今年はたくさんの桜を眺めた。仕事をしていないため、時間がたっぷりあったということもあるけれど、今年の始め、父を亡くしたこともある。三分咲きの枝も満開の木も、風に散る花びらも、今年の桜は目にしみる。
わざわざ桜の名所に足を運ばなくても、私の住まいの近くでは、いたるところで花見ができる。散歩の途中に立ち止まり、よそのお宅の桜を見上げる贅沢。線路脇の桜のトンネルを、車窓から眺める眼福。桜が咲き始めると、ここにも桜が、あそこにも桜がと気づかされ、日本人の桜好きをあらためて思う。
仰ぎ見る桜も幻想的でいいのだが、遠くから眺める山桜もなかなかのもの。春の訪れとともに緑が鮮やかになり、笑っているかのような山肌が、ところどころ桜色に染まる様子は薬玉のようで、なんとも可愛らしい。
ひさかたの光のどけき春の日に
しづごころなく花の散るらむ
古来より桜の歌は数知れない。なかでも紀友則のこの歌が好きだ。技巧に走らない歌からは、素直な気持ちが伝わってきて、こちらもしづごころではいられなくなる。
願わくは花の下にて春死なん
その如月の望月の頃
この歌は西行の切なる願いとしてだけでなく、花見をしながら杯を重ね、このまま死んだら幸せだろうなと思わせる、満開のころ特有の朦朧とした空気感が伝わってくる。
私が幼い頃、桜は入学式の花だった。だが温暖化の影響か、今や卒業式の花になりつつある。最近の桜の歌は卒業ソングのようだ。桜の持つ散るというイメージは、入学式より卒業式の方が似つかわしいのかもしれない。
春を待たずに亡くなった父は、晩年に視力を失った。だが今は、いろいろなものがしっかりと目に映っていることだろう。久しぶりに見る、満開の桜はどうですか。たとえ花の色が分からなくても、花見に連れ出してあげればよかったと悔やみつつ、心の父に語りかける。